「山びこ通信」2016年度秋学期号より下記の記事を転載致します。
『フランス語講読』
担当 渡辺 洋平
フランス語講読Aの授業は、夏休み中も開講し、アンリ・ベルクソンの論文集『精神のエネルギー』(1919)から「心と身体」、「脳と思考」の二編を読んできました。ベルクソンは19世紀末から20世紀前半のフランスを代表する哲学者であり、西洋哲学史においてデカルトに匹敵する巨大な存在です。『精神のエネルギー』は、論文集ということもあり、ベルクソンへの入門書としても非常に優れています。
さて、「心と身体」、「脳と思考」は、共通するある問題を扱っています。それは、タイトルからも類推されるように、精神と身体の関係、より正確には精神が脳に還元されうるのかどうかという問題です。精神と身体の関係は、両者を異なる実体とみなしたデカルト以来、心身問題としてたえず問題となってきましたが、科学の発展とともに精神は脳の状態へと還元される傾向にありました(これは現在でもそうだと言えるでしょう)。しかしベルクソンはあくまでも精神の実在を肯定し、人間の心は脳の状態には還元されえないのだといいます。
ベルクソンによれば、精神と身体、より正確には精神と脳との関係は、「衣服」とそれを掛けるための「釘」の関係のようなものです。衣服は釘に掛かっているため、釘が抜ければ衣服も床に落ちてしまいます。しかし、だからといって衣服と釘は同じものではありません。それと同様に、精神はたしかに身体につながっていますし、脳に損傷をうければ精神にも影響が生じます。しかし、精神は身体、あるいは脳と同一ではないのです。
このことを証明しているのが失語症の事例です。ベルクソンの時代においてすでに、言葉の記憶が脳のある箇所と関係していることが知られていました。ところが、脳に損傷をうけた人でも、なんらかのきっかけによって言葉の記憶が蘇ってくる事例が報告されています。もし記憶が脳に物質的に蓄えられているものだとすれば、このことは不可解です。脳の損傷とともに言葉の記憶も壊れてしまうと考えざるをえないからです。ここからベルクソンは、脳とは記憶を呼び起こすものであり、保存するものではないという結論を導きます。記憶は、脳とは別の場所に、すなわち精神のうちに保存されているのであり、脳はそこから適切なものを選び現在の行動のうちへと顕在化させるのです。したがって、脳とは精神が身体と接する場でもあることになります。それに対し、精神が脳に還元されるという立場は自己矛盾をおかしています。というのも、それは観念論と実在論という両立しえない立場を同時に採用しているからです。
精神の実在を肯定し、なおかつ脳を精神と身体の交差点とみなすこと、これはベルクソンの第二の主著である『物質と記憶』(1896)の主要なテーゼのひとつであり、それゆえに今回読んできた二編は『物質と記憶』への導入としてふさわしいものでした。現在のところ、まだ「脳と思考」を読んでいる途中ですが、これを読了し次第、『物質と記憶』の講読へと進んでいく予定です。『物質と記憶』はベルクソンの著作のなかでもとくに難解なものとして知られていますが、少しずつ考えながら読み進めていきたいと思います。
フランス語講読Bの授業は、春学期でデカルトの『方法序説』を読了することができました。おおよそ2年ほどかかりましたが、かなりじっくりと、文法事項についても内容についても考えながら読むことができました。ともすれば関係のない話に脱線しがちな授業に根気強く参加してくれた受講生の方に感謝したいと思います。ひとりで読んでいたのでは気付かなかったり、あるいは適当に読み飛ばしてしまったりする点に気付かせ、立ち止まらせてくれるというのが、集団で読むことのよい点のひとつであると思います。私自身も大いに学ばせていただきました。
さてこの秋学期からは、こちらも同じくベルクソンの、もうひとつの論文集である『思考と動き』(1934)から「形而上学入門」を読み始めています。まだ冒頭の数頁を読んだだけですが、ニュアンスに富むベルクソンの文章を読むのに苦労しているようです。ベルクソンは翻訳も多く、この『思考と動き』も数種類の訳書が出ていますが、どの訳で読むかで印象が大きく変わります。これは他の哲学者にはない、ベルクソンの特長であるように思います。ベルクソンの原文が持つニュアンスの豊富さが、偲ばれます。
ベルクソン自身、「形而上学入門」の冒頭で、ホメロスの詩句を引き合いに出しながら、翻訳では原文からうけた単純な印象を伝えきれないことを書いています。この意味でも原文で読む機会があるというのは貴重なことでもありますし、大事にしたいと思う次第であります。
くしくもA、Bともにベルクソンを読むことになりましたが、興味がおありの方のご参加をお待ちしています。ベルクソン以外のものでもできる限り対応いたしますので、ご希望の図書等がありましたらお気軽にお問い合わせいただければと思います。