『ことば』3〜4年 クラス便り(2016年11月)

「山びこ通信」2016年度秋学期号より下記の記事を転載致します。

『ことば』(3〜4年)

担当 福西 亮馬

 秋学期には新しいメンバーが加わりました。そして和歌、推理クイズ、説明文の要約をしています。和歌からは自然を愛でる理屈抜きの心の目を、説明文からは論理的な頭の目を、あるいは、推理クイズからは物事を偏見なく見渡す目を、要約からは物事を掘り下げる目を、ともに養ってほしいと考えています。そしてその相互作用としての何かがそれぞれの生徒たちの内面に生まれることを期待しています。

 推理クイズでは、「はい」か「いいえ」で答えられる質問をして、出題者の頭に思い描かれた答の状況を解き明かします。前提を疑い、先入観を払うことに重点を置いていることから、水平思考クイズとも言われます。前提から出発して考えを掘り下げる論理パズルとは対比されます。
 これは最近の発見ですが、質問の回数を多くするためには、むしろそれを制限することが有効でした。つまり質問のドラフト(下書き)をみんなで頭をつき合わせながら確認し、「これはどう? あれはどう?」と相談してもらうのです。下書き状態という気安さなので、内語にとどめていた単語や短文も飛び出しやすくなります。そしてそれをぎゅっと取捨選択してもらいます。そうして作った「質問」は、やはり公にも質問したくなります。そのような例としては『二十の扉』があります。それもしたことがありました。
 最初はよそよそしく堅苦しかった生徒たち五人ですが、推理クイズをすると、だんだん気心を知り合って、発言を楽しんでくれるようになりました。

 また最近では、説明文を読んで「まとめる」ということを始めています。アンテナを張ってキャッチしたことを、自分のものにし、また人にも正しく伝えるためには、要約の力は欠かせません。最近ではインターネットがありますが、小学生にとって身近なソースと言えば、依然、本でしょう。そしておそらくその付き合いは一生続くものでしょう。
 自分の内にある情報、特に思い出の出力は、もちろん大事です。私もそれを生徒たちにしてほしいと考えています。ただ小学生の頃にあまりそれを期待しすぎると、現実との乖離が生じてしまいます。そこで私も自分自身の小学生時代を思い出し、新しい情報がたいてい外からもたらされていたことを反省しました。外とは、親の話であり、先生の話であり、そして本でした。折りしも、山下先生から「要約をしてみては?」というアドバイスがありました。それで、本から新しい栄養を得ることの、「何が書いてあるのか?」に対する解像度を上げることの、お手伝いができればと考えました。まだ授業自体に試行錯誤がありますが、後できっと思い返してよかったと言ってもらえるように、今後も工夫していきます。
 さて、その説明文の一つに、中谷宇吉郎の『立春の卵』(『中谷宇吉郎随筆集』所収、岩波文庫)の一部を読みました。その導入として、生玉子とゆで玉子とを両方用意し、それぞれ立つかどうかを実験してみました。これは、今となっては全国各地の授業で使い古されたネタかもしれません。結果を知っている生徒もいました。ただそれを伝聞ではなく、「自分の(言葉にしたい)体験」にするところに重きを置きました。
 授業で読んだ箇所の、筆者の主張は以下の通りです。「卵の表面はザラザラしているが、顕微鏡で見ると実際0.6mmほどの周期で波打っている。よって卵の接地面には一辺0.1mm単位の多角形の頂点が、五徳の足のように存在することが分かる。そして卵の重心をその多角形の内側に収めることは、約1°の角度の微調整にあたる。それは人間の手先でも可能である。だから卵は立てることができる」「またその微調整は、『卵が立たない』という先入観があると日常生活ではほぼ経験できない。そのような認識の盲点が行動を曇らせることはどの分野にもあり、影響を及ぼしていそうである」と。
 これは私が要約した例です。決して自分でも良い例だとは思いませんが、言う以上は自分でもやってみるということは大事だと思います。おそらく生徒たちは私の言うことではなく、することを見ていてくれるのだろうと思います。