岸本です。
昼に晴れたかと思えば、夜には雨がちらつきそうな空模様。
今回議論した時期も、三国が成立したと思ったら、それぞれに暗雲が立ち込めてくるという、まさに今日の天気のような話でした。
そしてついに220年、曹丕が漢の献帝より禅譲を受け、文帝として即位します。
これによって、長らく続いた漢が滅亡し、魏が成立するのです。
それに対して、劉備も翌年には昭烈帝として即位し、蜀が成立します。
当初は魏に臣従していた孫権は、229年に即位し、遅れながらも呉が成立、ここに三国が揃うことになります。
しかし、これ以降の50年ほどの歴史は、いわゆる三国志演義ではあまり大きく取り上げられません。
有名な英雄たちはほとんどこの世を去っていますが、諸葛亮もまた最後の英雄として、第五次北伐のさなか、五丈原に没するのです。
それ以降は「つまらない」という評価が妥当するかはおいておくにしても、一抹の寂寥感を感じずにはいられません。
ただ、『三国志演義』とうたいながら、実際の話の中心は「後漢時代」というのも、面白いところかもしれません。
この北伐前後には、面白い論点がたくさんありますが、その一つが「諸葛亮はなぜ馬謖を用いたのか」です。
「泣いて馬謖を切る」という有名なエピソードもありますが、彼が北伐の成功の鍵を握っていたという点からも、この疑問は興味深い点です。
生徒さんもエピソード自体は知っていても、それについては首を傾げていました。
いろんな説はありますが、今回は蜀の内部での「派閥争い」にその理由があるのではないかという説を紹介しました。
この「派閥争い」が、諸葛亮死後の蜀滅亡の遠因になっていくという点は、生徒さんも関心を持ってくれました。
それに引き続き、蜀と魏の滅亡について、それぞれの原因を探りながら話を進めていきました。
蜀の場合、先に挙げた「派閥争い」に加えて、その原因は「亡命政権」という性格と、皇帝権の脆弱さにありました。
魏の場合は、幼帝の即位と官僚らの派閥争いの中で、司馬氏に主導権を奪われていったことが大きいでしょう。
時間の都合上、最後を飾る呉の滅亡については、来週に持ち越すことになりました。
また次回は、最新の研究書を通して、部分的にでも自分なりに三国志の歴史を書いてもらおうと考えています。
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