0908 山の学校ゼミ(倫理)

浅野です。

 

福沢諭吉、中江兆民という流れで今回は幸徳秋水を取り上げました。

 

わかりやすい記述で帝国主義戦争の批判がされていました。今でもそのまま当てはまるような議論がたくさんありました。

 

 マハン大佐が軍備と徴兵の功徳を説くやり方は、かなり巧妙だ。こんなふうにいう。
経済上においては生産の衰退をまねき、人の生命と時間とを税金として差し出させるようだ、などという、軍備における不利益または害毒については、われわれは日々、それを耳にしているから、ここにあらためて説明する必要はない。

しかし一方から見ると、軍備と徴兵によってもたらされる利益の方が、その弊害よりも大きいのではないだろうか。今日のような、目上の人間の権威が衰え弱まり、規律のゆるみが目に余る時代に、年少の国民は、秩序と服従と尊敬を学習しなければならない兵役という学校に入ることによって、その身体が組織的に鍛えられ、克己や勇気や人格が、軍人の重要な要素として養成される。ここに何の利益も効用もないだろうか。多くの年少者が軍人となるべき教練を受けるために、自分の生まれ故郷を去り、一つの団体をつくり、高等な知識をもつ先輩にまじって、その精神を一つにし、共同で労働すべきことを教えられる。また憲章・法規のもつ権威や権力というものに対する尊敬の念を養い教練を終えて、再び故郷に帰ることは、今日のように宗教が軽んじられ、乱れた時代に、何の役にも立たないことだろうか。よく観察し比較してみるがいい。初めて軍人養成のための教練を受ける新兵の態度や動作と、教練を受けたあとの兵士の容貌や体格とを。彼らを比較してみれば、両者の間にはどれほどの優劣の差があるか、わかるだろう。軍人養成の教練は、その教練を終えた兵士が後年おいて各人が、生計をいとなむ上で決して有害なものではない。少なくとも大学において年月を浪費してしまうほどには、有害でない。それに軍備と徴兵は、各国民が互いに相手国の武力を尊敬することによって、平和はますます確保され、戦争はその数を減らし、たまたま強い衝動による事故があるとしても、事の成り行きはきわめて急速に収束へと向かい、それを平定することはきわめて容易である。それでも軍備と徴兵は何の役にも立たないというのか。考えてみれば、戦争は百年前には漫性病であったが、今日ではきわめて稀にしか起こらない急性の発作である。だから戦争という急性の発作に対する準備、すなわちまれにしか起こらぬ発作を治すために戦う心は、もとより善であり美であって、その心は兵士が傭兵であった当時よりも、今の方がはるかに広大であり活発になっているのがわかる。なぜなら、今や国民が兵士であり、単にひとりの君主の奴隷ではないからである。

 

 マハン大佐の言説が巧妙でない、というのではない。しかしわたしには、それがひどく非論理的にみえる。
 マハン大佐のいうところを分析しよう。彼はこう言う。「戦うことを学び、秩序と尊敬と服従の徳を育成することは、今日のような、権力が衰え規律のゆるんだ時代には、もっとも緊急を要する大事である」。またこうも言う。「しかし戦争は病気である。百年前は慢性的な病気だった。今は国民皆兵であり、国民は君主の奴隷ではないから、戦争は減少した。たまたま戦争が起こるとしても、それは急性のものである。だから健康なときに、いつでも急性の発作に対処するための準備と注意が必要だ」。そうだとすれば、マハン大佐の主張はこういうことになる。「国民が戦争という慢性病にかかっている時代は、秩序があり、規律がしっかり守られている時代である。一方、健康な時代は、すなわち『規律がゆるみ』『宗教が壊れて乱れた』時代である」と。これは奇妙な話ではないか。

幸徳秋水著、山田博雄訳『二十世紀の怪物 帝国主義』(光文社、2015)pp.84-87

 

まさにこのままの議論を今でもよく耳にします。