山下です。
授業ではウェルギリウスの『牧歌』を読んでいます。
昨日は第5歌の最後の部分を読みました。
Dum iuga montis aper, fluuios dum piscis amabit, 76
dumque thymo pascentur apes, dum rore cicadae,
semper honos nomenque tuom laudesque manebunt.
山の尾根を猪が、魚が川を愛する限り、
蜜蜂がタイムの花によって、蝉が木の露によって生きる限り、
あなたの誉れと名声、称賛は永遠にとどまるでしょう。(76-78)
『牧歌』の先行するいくつかの歌では、アデュナタ(ありえないこと)の例が見られ、この引用箇所をアデュナタで書けば、
「山の尾根を魚が、猪が川を愛し、
蜜蜂が木の露を、蝉がタイムの花を・・・」と表現されるところです。
しかし、ここでは「まっとうな」組み合わせが示されています。
アデュナタが現実を一回ひねっている表現なので、二回ひねってノーマルに見えている例といえばよいでしょうか。
第5歌は、ダプニスの死をテーマとした二つの歌が二人の牧人によって歌われていますが、どちらの歌も永遠を感じさせる穏やかで心が静かになる調べになっています。
その調子にあわせるように、今紹介した「アデュナタがひっくりかえされた例」も表面的には波風たてることなく文脈におさまっていると見ることが出来ます。もちろん、ウェルギリウスの常、それはあくまでも表面的なことであり、ダビンチコードではありませんが、深く読み始めるといろいろな詮索が可能な詩になっています。
たとえば、最後に二人の詩人が贈り物の交換をしますが、それぞれの贈り物(笛と杖)が何を意味するのか、考えると面白いです。