山びこ通信2015年度秋学期号より下記の記事を転載致します。
『ロシア語講読』
担当 山下 大吾
当クラスは、前学期に引き続きチェーホフの短編の講読となっております。前学期途中から取り組み始めた「小三部作」の最後の短編である『愛について』を読み終えたばかりのところです。受講生は変わらずTさん、Nさんのお二方で、その読了の瞬間には、一仕事終えたような達成感を三人で共有することになりました。外国語講読に限らず、複数人で読み進める読書ならではの体験と言えましょうが、とりわけロシア語のように語形変化が多く、綿密な予習が欠かせない言語の講読だけに、その喜びは一層増したように思われます。次回のテクストは「小三部作」成立の直前に書かれた短編『イオーヌィチ』の予定です。
三部作の最後に相当する『愛について』は、先行する『殻に入った男』や『すぐり』が、それぞれタイプが異なるとはいえ特定の人物やテーマを暗示する比喩的なタイトルであったのと異なり、単刀直入、タイトル通りの主題で筋が展開します。古代ギリシアの哲人プラトーンがその対話篇『饗宴』で取り組んだテーマと同一であり、事実ストーリーは登場人物たちが朝食を共にする場面から始まりますが、哲学的で抽象度の高い一般的な考察はあっさり断念され、個々のケースをそれぞれ個別に明らかにすべきだとして、農奴解放など一連の社会変動によって、以前の裕福な地位から転落してしまった田舎暮らしの没落貴族、アリョーヒンの経験した愛にまつわるエピソードが物語られていきます。
個別的に論ずるべきと語ったはずの彼の最後に到達した愛についての確信は、逆説的に普遍の響きを伴い、読む人の胸に染み渡ります。そのもの悲しさは、結局実ることのなかった愛の顛末のみならず、プーシキンの抒情詩の再現と称えられる、チェーホフその人のロシア語から漂う、かすかに明るさの感じられる独特の静けさ、ほの暗さによって倍加するようです。冒頭で記した我々の達成感にも、振り返れば何かしら淡い影のような落ち着きが伴っていたように思われます。