浅野です。
春学期にホッブズ、ロックまでは見たので、ルソーから再開しました。
社会が人間をダメにしているといった記述は、現代にこそより当てはまるように思われました。名言をいくつか引用しておきます。
ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会〔国家〕の真の創立者であった。杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、「こんないかさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!」とその同胞たちにむかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいがに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてやれたことであろう? しかしまたその頃はすでに事態がもはや以前のような状態をつづけられない点にまで達していたことも明らかなようである。というのは、この私有の観念は、順次的にしか発生できなかった多くの先行観念に依存するもので、人間精神のなかに突如として形作られたのではないからである。すなわち、自然状態のこの最後の終局点に到達するまでには、多くの進歩をとげ、多くの才覚と知識とを獲得し、それを時代から時代へと伝達し増加させなければならなかった。そこで物事をもっと溯って考え直し、そのもっとも自然的な順序において、そのようにゆるやかに継起する出来事と知識を、ただひとつの見地から集中するようにつとめてみよう。
J.J.ルソー著、本田喜代治、平岡昇訳『人間不平等起源論』(岩波書店、1972)、p.85
主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない。一般意志はそれ自体であるか、それとも、別のものであるからであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは、何ひとつとして決定的な取りきめをなしえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれば、自由を失うのも当然である。
J.J.ルソー著、桑原武夫、前川貞次郎訳『社会契約論』(岩波書店、1954)、pp.132-133