かず低学年

福西@かず1~3年です。

最初はまず、自己紹介をしてもらいました。そこである発見(私の中では大きな発見なのですが…)をして、まず私が背筋を伸ばさねばという思いがしました。それは『なん年、なになにです。なに小学校に通っています』ということを言うだけでも、真剣さはもちろん、この年では、結構緊張するものなのだという事を目の当たりにしたことです。しかもそれは1年生に限らず、3年生であっても同じなのだという事実です。

ということは、ある意味「年」と言って年ではなく、年によっておそらく増えているだろうところの、それまでの「経験」こそが自信を持って言うことに「必要な物」なのではないかということなのです。

このことから類推して、勉強でも「これくらいはできるだろう」と、つい大人の判断で推し進めていること、「よし、じゃあ次は…」と一見無駄なく先に進んで教えているような展開でも、それらの内容が、実は身の丈と「合っていない」ケースがあるのではないか? 自己紹介一つにしても、緊張し、また一つの出来事に真剣になってほかの事が眼中でなくなる様子からも、誰しもあまり複雑なことは最初からできるはずがないのではないだろうか、またそれをする時に自信が持てることには、かなりのそれまでの経験がいるのではないかと思ったのでした。

あまり良い譬えではないかもしれませんが、売り場で「うちの子のサイズは、これぐらいだろう」と思って(良かれと思って喜んで)買ってきたセーターを家で着せてみると、実はブカブカで用をなさなかったということが、今後の勉強の展開でもありそうな気がして、私は自分の教え方に対してドキッとしたのでした。

そういう予感がしたので、今年度は前よりも増して、「復習」を徹底しようと考えたのでした。復習であれば、それは未知の事に対して挑戦するという(子どもにとってはできるかどうか分からない、ただ大人はつい「できる」と思ってしまう)モチーフは減って、過去の経験(≒勝ち癖)の蓄積というモチーフが増えるからです。もちろんできなかったことができるようになる(それを誉める)という展開は、後になって必要です。ですが、いきなりそれを最初から狙うのは早計ではないかと思うのです。できることを復習する間こそ、できなかったことを「できるようにしたい」という気持ちを蓄え、実際それを克服する時に必要となる燃料をも蓄えていることになるのではないかという思いがしています。急がば回れと言うことなのだろうと思います。

ですので、「○を◎に」してもらうところで「勝ちポイント」みたいなものを内にどんどんためてもらうことを、しつこいくらいしても、まず大丈夫なのではないかと考えています。彼らはそれを飽きるのではなく、かえって次のことを待ち望み、克服するときのエネルギーにしてくれるのではないかと期待しています。

むしろ「本当に飽きるところまで行ったことがあるのか?」ということを疑ってみるべきなのです。実際、飽きてから次の展開を見せた時、その生徒の吸収の早さたるや、驚かされることがしばしばあります。(それが「教えるコツ」のようなものなのではないかと最近ちょっと思いはじめています。そうなるとむしろ、その作業は、「先生」という名前のついた人の専売特許ではなく、ご家庭での方が、個々に付き合える時間という点でも、向いているのではないかとさえ思われます)

長くなりましたが、結局、先の事を教える「技術」よりももっと前に必要なのは、手前のことでしつこいほど勝ち癖をつけさせる「配慮」(親身になって心配する心、まさに「親心」という日本語にあるそれ)なのだろうと思われます。まるで『北風と太陽』みたいなオチですが(笑)。