0416 山の学校ゼミ(倫理)

浅野です。

 

江戸時代の思想家から再開しました。

 

林羅山が朱子学を、中江藤樹が陽明学を紹介し、それに対して山鹿素行や伊藤仁斎が孔子の『論語』などを直接読めと主張したというのが大きな構図です。仏教や老荘思想も言及されます。

 

少し長くなりますが、山鹿素行の告白が率直で参考になるので引用しておきます。

 

一、学問の筋は昔から今までその種類は多い。儒教、仏教、神道はみなそれぞれ一理があるということなのである。私は幼少から壮年まで、専ら程子・朱子の学問の筋に励み、それゆえそのころの私が述作した書は、みな程朱の学の筋であった。途中で老子・荘子を好んで、玄々だの虚無だのを本と考えた。この時は特に仏法を尊んで方々の五山の名僧知識に会い、悟りにむけて学び修行することを楽しみ、隠元禅師にまでまみえた。しかし私は不器用であったせいか、程朱の学を学んでは持敬や静坐の修養ばかりに陥ってしまい、人柄が内向的にかったっなり沈黙しがちになるように感じられた。朱子学よりは老荘や禅のやりかたの方が闊達自由なので、それらが説く性心の働きとか、天地一体の妙用とかが、高遠で明晰なように思われ、何ごとも自分に本来備わっている心性の働きをもとにしているから、滞ることもないし、天地が崩壊しても、永遠に変わらぬ唯一の道理は、くもりなくすっきりしていて疑いのさしはさむ余地が無いと思った「しかしながら目の前の日常の物ごとへの対応についてはいっこうに納得できなかったので、これは私の不器用のためこうなのであろうからいま少し理解が深まればわかるであろうと思い、ますますこの道に励んだ。あるいはまた日常の物ごとは甚だ軽い問題で、どのようにしても大勢に影響無いとも思ったが、五倫の道に身を置き、日常の諸事の場で活動している身であれば、このようですむはずがなく、そこでいきづまることになった。樹の下、石の上の住居で一人でわびずまいをし、世間の功名を棄ててしまったならば、無欲で清浄であることは言語を絶し、自由闊達な境地にもなれるように思ったが、一天下、国家、民衆についての具体的な施策ということについては、大きなことは言うに及ばず、小さいことでも世間の無学な者ほどにもわかっていなかった。一方は仁を体得するときは、一日の間に天下の事は解決すると考え、もう一方は慈悲を本にすれば、過去から未来への延々と続く功徳になると言うのであるが、実際のところは世間と学問とが別のことになってしまっている。他人はいざ知らず、私はこのように考え、この調子では窮極の学問とは思えなかったので、儒者や仏者にこのことを質問し、また高僧といわれる人にもたずね、その人たちのやり方も見聞したが、実社会とはあわず、実践との関係もみなばらばらになっていた。神道は我が国の道であったが、旧記がわからなくなり、末節的なことしか知られず不完全な状態である。この書にはきっと天下国家の要法もあったはずだが一入鹿の乱の後、この旧記が絶えてしまったと考えられるのである。このように私は学問に不審な点が出て来たので、ますます広く書を読み、古えの学者たちが言い残した内容を考えていったが、私が不審に思った条々はますますらちがあかなくなったので、きっと私の理解に間違いがあるはずだと考えながら、数年間この不審が解けなかった。寛文年間の初め、私が気がついたのは、漢・唐・宋・明の学者の書を読んできたので、わからなかったのではないか、直接に周公・孔子の書を読み、これを手本にして学問の筋を正そうということであって、それからは普段は後世の書物を用いず、聖人の書ばかりを昼夜読んで、初めて聖学の道筋がはっきりと納得でき、聖学の規範を見定めた。たとえば紙をまっすぐに切るのに、どれほど細工ができても、定規が無く手にまかせて切れば、全てろくなものにはならない。また自分自身はまともに切れるが、人々に同じように切らせてもうまくいかない。それがところどころ定規をあてて切れば、幼少の者まで、だいたい一応はその筋目のように切れるものである。そこには上手下手はあっても、その筋目は一定している。ということは聖人の道筋というのを理解しておけば、いわば右の定規を知っているわけであるから、何事であれその人の学問の程度に応じてその道を理解できるということである。それゆえ聖学の筋には、文字も学問もいらず、今日聞けば今日すぐにすべきことがわかるのである。修養も持敬も静坐もいらない。であるからたとえ言行が正しく、身を修め、千言万句を暗記している者でも、これは雑学であって聖学の筋では無いというようなことがはっきりわかった。また一言半句言うだけで、聖学の筋目を知っていることもわかるのである。これは定規によって正しく考えるからである。今はまだ見たり聞いたりしていないことでも、右の学の筋から推していくと、十カ条のうち五、七カ条はわかるものである。俗学雑学の輩は、十カ条のうち三カ条もわからないものだ。そのことを私は確信した。それゆえ世間の無学な者に博学な者の方が劣っていて、人に笑われるということが出てくるように思われる。つまり鋳型が無いままに鉄炮の玉をけずり、定規無しで紙をまっすぐに切ろうとするので、労すれども功無く、常に苦しんで、益は全く無く、学問をすればするほどいよいよ愚かになるように、私は思うのである。

山鹿素行『聖教要録』『配所残筆』(講談社、2001)、pp.192-195

現代で言うなら哲学を専攻しようとしたが実生活とのつながりがほしくて社会学にした、といったところでしょうか。