「山びこ通信(2014年度冬学期号)」より、下記の記事を転載致します。
『ロシア語講読』 山下大吾
今学期読み進めてきた『ジプシー』は、プーシキン南部流刑時代に記された物語詩の一つで、その中では、同時代に記された『カフカースの虜』やその後の『エヴゲーニイ・オネーギン』などプーシキン自身の作品のみならず、トゥルゲーネフの『ルージン』など19世紀ロシア文学で幾度も繰り返される典型的な人間像となった「余計者」が主人公アレコの姿をとって毒々しいまでに具象化されています。
上辺だけの豊かさや無用な掟に縛られ、人間の本来有する大らかさや純真な愛情を圧しつぶしてしまう上流社会の環境を忌み嫌うがあまり、その様なしがらみとは無縁の、未開の営みに対して救済の望みを抱きつつ、自ら漂泊の民ジプシーの世界へと足を踏み込んでいくアレコ。美しいジプシー娘やその老父と生活を共にすることで、文化的な澱を完全に払落し、純粋な人間に回帰したと思い始めたその矢先、ふと沸き起こった恋愛沙汰が契機となって、結局何より彼自身がその文化的害毒に侵されきってしまった人物であることが暴露されます。その様な主旋律の傍らでは、当地に流されてきた老オウィディウスにまつわる伝説や、「神の小鳥は苦労も心配も何一つ知りはしない」で始まる歌の調べが色を添え、またそのロシア語も、「未開」や「掟」といったキーワードが効果的かつ印象的に繰り返され、さらに劇仕立てと言えるほどの硬く重々しい響きの台詞で、例えばアレコの陰湿この上ない怒りを浮かび上がらせるなど、文体や表現の妙は他のプーシキンの作品同様微塵の隙も見せません。
前回の「山びこ通信」で『モーツァルトとサリエーリ』を間もなく読み終え、引き続き『ジプシー』に進む予定ですとお伝えしましたが、今回も丁度同じような巡り合わせで、二月二週目の授業でフィナーレとなりました。内容や文章の難易度など様々な理由が重なり単純な比較は勿論できませんが、後者は前者のほぼ倍の分量に相当するため、講読のスピードは格段に上がっていることになります。これもTさん、Nさんお二方の不断のご努力の何よりの証、自信も深められているように察せられ、指南役としては嬉しい限りです。
この勢いを大切に保ちながら、次回はこのクラス初の本格的な散文作品となる、後期チェーホフの代表的短編の一つ『殻に入った男』に取り組む予定です。