福西です。
この日も暗唱のおさらいを重ねました。今回はクイズ形式のプリントを用意しました。書いて、間違えて覚えている部分が見つかれば、正してもらいました。
それをした後に、紙芝居を読みました。
『ぬまのぬしからのてがみ』(望月新三郎/脚本、田代三善/画、童心社)
ある若者が、「かすみが沼」という場所で一人の老婆に出会います。老婆は、若者に一通の手紙を渡し、「やまびこの池まで届けてほしい」と頼みます。若者はそれを承知します。
道中、若者は僧に会います。そして手紙が「あぶり出し」になっていることを教えてもらい、内容を確認します。
(この時点で、「僧が黒幕」という疑いを見せる生徒が一人もいなかったことが、素朴だなと思いました。)
それには「この若者をどうぞ食べてください」ということが書かれています。
そこで、僧は、手紙の内容を「この若者に宝物を渡すように」と書き換えます。
手紙を受け取った、やまびこの池の主は、若者に、「なんでも出てくるこづち」と、「水のたねの入ったとっくり」のどちらかを選ばせます。
(生徒たちは、「なんでも出てくるこづちやったら、それで水も出せるし、そっちの方がいい」と、案の定、知恵を働かせていました)
「こづちを えらんでいたら、ひとのみに たべるところであった」
というところで、声色を作ると、びっくりしてくれていました。
(後の展開はここでは省略します)
「もっと読んで」というので、生徒が本棚から取ってきた、『京都のむかしばなし2』(京都の昔話刊行会・編、小西恒光・絵、京都新聞社)を読みました。一話ずつが短くて、すっすっと読めました。(古本で見つけたのですが、稀な本だと思います。)
(三十三間堂棟木由来。そういえば以前、こちらのクラスでも読んだのを思い出しました)
『いわえもんがひかえとる』(蜘蛛の出てくる話)
『おおかみのまゆげ』(不思議なアイテムの話)
(あと一つ読めば全部読めたのですが、残念、時間が足りませんでした)
最後の『おおかみのまゆげ』が、私の記憶からはとんと抜け落ちていました。一方、Tasuku君がそれを知っていて、興味を示していました。
おおかみの大将からもらった「まゆげ」を透かして見ると、人間が、蛇人間だったり、ムカデ人間だったり、キツネ人間だったりして見えるようになります。
それが、心のまっすぐな人間だった場合は、そのまゆげを通して、「人間」に見えるというわけです。
そのからくりが、最初のうちは生徒たちに伝わらずに、「なんで?」「え、なんで?」となっていました。それで「ああでもない、こうでもない」と、哲学チックな方へ話が行きかけて、盛り上がりを見せました。
私自身、思い出の一つになりました。
そういえば、Ryohei君が、『おりゅうやなぎ』で、きらりとした目をしていました。やなぎが倒れたあとに、おりゅうがいなくなる下りで、「なんでいなくなったのかなあ」とみんなに問うと、Ryohei君が即答で、「だって、やなぎを倒したからやろ?」「だって、やなぎがおりゅうやから」と。それは当たり前に思われるかもしれませんが、たぶんクラスの中で(私も含めて)、一番当たり前にその物語の中の事実を、事実として受け取っていたのは、Ryohei君だろうと思われました。
Ryohei君には、物語を「物語の中」から感じ取れる肌があるようです。「物語の心のひだが分かる」というか、特にこの手の変身譚とは相性がいいのだろうなと思いました。(以前『ラチとらいおん』を読んだ時だったか、その時にも、それと似たようなことを感じたことがありました)
「今日はお話読まへんの?」
と、毎回のように彼が聞いてくる気持ちが、今では以前とくらべると少しだけ分かるようになってきた気がします。
そう言いながら、このクラスでの授業も、あと2回です。