「山びこ通信(2014年度冬学期号)」より、下記の記事を転載致します。
『ことば』(1〜2年A・B)
担当 福西亮馬
Aクラスでは、一年を通して百人一首を暗唱してきました。この原稿を書いている頃には十七首目となりました。冬学期の終わりには二十首を少し越えているあたりでしょうか、それで歌のおよそ五分の一に触れたことになります。その間に生徒も、最初は一人のところから、川の流れのように集まって、いつしか五人になっていました。
歌の馴染みのつけ方は人それぞれですが、「一首これが好き!」という歌があることが、とびきり大事なことだと思います。昨年12月のイベントで、かるた大会をしましたが、その時も、「札が取れてから好きになった」という生徒が何人かいました。それも嬉しいことでした。
古今和歌集の仮名序に、歌は「鬼神をもあはれと思はせ」る、とあります。その歌の一つでも胸に持つことは、きっとこれからのお守りとなるでしょう。五七五七七の歌の形式は、異国の文化に範を取ってきた日本人が、いかにして真心を表現できるかと思って磨いてきた「固有の器」です。そうした文化背景に身を置きながら、自身もまた固有であることに胸を張る気持ちは、人をも同じように固有であると認めるための「もと」です。いつ、どこへ行っても、それは変わらないだろうと思います。
創作では、俳句作りが特に男の子を中心に盛り上がりました。これはBクラスとは違う特徴で、Aクラスの方が「書く」ということに対して意欲的でした。俳句帳は、お家で新しいファイルに移してもらったり、句紙を紅葉や花型に切ってもらう生徒も出てきました。そのようにさりげない大人の介添えで大事にされた出来事は、結局は何になるかと言えば、その生徒の真心として根付くのだと思います。それは何につながっているかが分からないからこそ、大事だと思います。先に述べた歌の一首の重さと同じく、ぜひ、そうした自分経由の古典もさりげなく大事にしていってください。
本読みでは、『火よう日のごちそうはひきがえる』(E.エリクソン作、佐藤涼子訳、評論社)を読んでいます。あと二回ぐらいで読み終わります。その後は、また昔話をいくつか読みたいと思います。
Bクラスでは、冬学期は、諸子百家の章句を暗唱してきました。春と秋に紹介した『孫子』と合わせて、十四句ほど覚えました。このクラスの特徴で、四人が四人とも知りたがり屋の元気な男の子ばかりだったので、ここはひとつ硬派に「寺子屋風」で行こうと思い立ちました。彼らが素読に最後までついてきたことを称揚したいと思います。
「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず…」など、もちろん短いと、サビの部分に限定される憾みがあります。それをやむを得ずとしながらも、単に有名だからというのではなく、繰り返し歌い調子で覚えられそうなものを選んで採りました。一方、「すなわち」や、「ゆえにじす、と」、「もってやむべからず、と」のような、書下し文特有の言い回しは、一年生には当然のように難しくあります。けれども、時にかっこよく聞こえることもあって、すっと入ったものはなかなか抜けにくいこともあります。やはりこの時期に憶えたものは自信になります。
しかしながら一方では、それを忘れてしまってもいいようにさえ思います(ただし思い出す時にはきっとすぐに思い出せると思います)。というのも、私が眼中とするのは、「命ながければ恥多し」や「出藍の誉れ」といった言葉には「元となった原文がある」という事実の方だからです。その事実に触れておくことで、将来、ことわざのような知恵の塊に、歴史を感じ、無味乾燥なものとしてもったいない覚え方をするのではなく、むしろ竹馬の友にすることを私は期待しています。
残りの時間では、絵本をよく読みました。先にも書きましたが、Bクラスでは「書く」ということに、まだ幾分遠慮や抵抗があるらしく、その分の時間をじっくり読むことに振り分けて、「お話の時間」として味わっています。待つことだと思います。Bクラスの方が、幼稚園の時期に読みそうな絵本に対する人気が高いです。こうしたバランスをむしろ、すこぶる面白く見ています。
小学校の「ことば」は充実していますね。同じように中学、高校の国語も議論の花が咲きますよう、4月からの展開に期待しているところです。担当は吉川先生でしたか。先生も学ぶ、生徒も学ぶ。以前プラトンのメノン(翻訳)を教材にして、先生も読んだ範囲を要約。生徒も要約。書き終えたら交換し、互いに添削する、という取り組みもあり。私はいろいろな科目があるのですが、中学、高校時代の国語の取り組みはもっとおもしろい取り組みができるのではないか、と期待しています。小学生でこれだけできるのですから。