2015-02-14 論語の素読・勉強会

2015-02-14 10.37.03

今朝は屋根に雪の残る寒い朝でしたが、時間になるとみな白い息を吐きながら元気に集まりました。今日は初参加の生徒はいませんでしたので、内容について少し突っ込んだやりとりを重ねました。

前回お休みの生徒もいたので復習を兼ね、「けんをみてはひとしからんことをおもい、」の「けん」の漢字を考えてもらったり、「くんしはきならず」の「き」はどんな漢字か?を問うたりしました。子どもたちから出てくる色々な漢字を当てはめ、それでうまく意味が通るかを確かめながら、最後に正解となる漢字を伝えました。

最後に「とくこならず」の「こ」を考えたとき(とく=徳は全員了解済み。6年生が「徳川家康の徳!」と即答)、別の生徒が「小」と答えました。たしかに「徳は小さいものではない、大きいものである」と考えると意味が通ります(小を「こ」と読んでよいかどうかは別にして)。ただ、それだとありきたりなことを孔子が述べたことになります。前回のエントリーでも書きましたが、古典の名言・名句はしばしば逆説的です。子どもたちには「急がば急げ」だとありきたりでも、「急がば回れ」というと「なるほど」と思えるね、と説明し、「こ」=「孤」と説明しました。

ただ、「徳=孤」という話は大人にも難しく、そのような問題意識のないであろう小学生に説明するのはなおさら難しいと感じます。私としては、「徳とは論語で言っているようなこと」とし、「そのようなことを日頃から意識したり、考えたりする人は少ないのではないか?」とのべるにとどめ、例として、「君子は義にさとり、小人は利にさとる」をあげた上、「義にさとる人は少ないのではないか」と問いました。「もしかすると『こういうことを考えるのは自分だけかもしれない』と思いがちです。でも、本当に『徳はひとりぼっち』なのでしょうか?」と。孔子はつづけて、「必ず隣あり」と言っていますね。徳は孤独ではありません。同じように考える人は必ずいると信じることができる、というのが孔子が言っていることです」と。

学校でも、なにか「おかしい」と感じる気持ちを経験したかも知れません。それは立派な「徳」、「義の心」ですが、周りを見ると見て見ぬふりをしていると感じる場面があるかもしれない。自分一人がおかしいと思い、周りはおかしくないと思っているかのよう。そんなとき、孔子の言葉を思い出すと、「いやちがう。君ひとりがそう感じるのではない。共鳴する人はどこかに必ずいる。少なくとも徳に関して言えば私が君の味方だ」と励ましてくれる気がします。

2015-02-14 10.37.08

9時からの勉強会は各人各様自分の課題にしっかり取り組むことができた2時間でした。何かひっかかる箇所があれば上級生が丁寧に教えるというスタイルは昔も今も変わりません。今日も6年生のY君と4年生のK君が後半あちこちからお声がかかりおおわらわでした。自分の問題集を進めるという目的だけを考えると、そうしたことは先生や他人に任せ、自分は目の前のことに没入する、というスタイルになります。もちろん、彼らの心意気はその対極にあるので、私は頼もしくその身振り手振りの説明を見守るのみでした。

目に見えるもの、見えないものも含め、ここに書き切れないさまざまなやりとりがこの日は子どもたち相互に交わされ、私にとっても心温まる2時間があっという間に過ぎていたのでした。