本日新聞の折り込み広告に下記内容で「山の学校の目指すもの」と題した一文を掲載させていただきました。
山の学校が大事にしていることが二つあります。一つ目は基本の重視、二つ目は応用の重視、です。なんだ、当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれません。しかし、山の学校が大切にしているのは、「本当の」基本、「本当の」応用です。基礎が大切と言いながら、「先へ、先へ」進みたがる傾向が世の中にはあります。
山の学校ではしつこいくらい基本の復習を重視します。ここを大切にすることで自信がつき、勉強が俄然楽しくなるからです。たとえば、英語が苦手だという高校生は、中学一年生の勉強から確認すべきです。中一の英語は簡単ではありません。日本文だけを見て、間違いなく元の英文がすらすら書けるでしょうか。
「無知の知」という言葉があります。「わからない」、「できない」という意識のまま、多くの人はそこで止まってしまいます。やがて現実から目をそむけ、事実にふたをし、見て見ぬふりをする。つまり「無知の無知」を決め込みます。これでは勉強が面白くなりません。野球で言えばキャッチボールを大事にする。プロもキャッチボールをします。しかし、プロらしく、正確に。高校生は高校生らしく、中学の復習をやることで、ぐんぐんやる気と自信が回復します(すでに自信のある人はもっと、もっと)。
しかし、問題はその先にあります。「本物の応用力」を身につけてこそ、勉強は楽しくなるのです。ではその応用力とは何か。たとえば、音楽にせよ、絵画にせよ、本来、人間にとって何かを表現することは根元的な生きる喜びにつながります。それに対し、学校や塾で重視される「正解の決められた○×試験」は、誰がやっても同じ結果になることが期待されています。試験も大事ですが、100点満点の枠組みの中で自分を位置づけるだけで終わっていてはもったいない話です(じつは、「本当の基礎」の勉強を徹底することで、試験で困ることはなくなります)。
たとえば、国語や英語の授業を思い出してみてください。先生が黒板にかかれた模範解答は試験に出るという理由でせっせとノートに書き写しますが、自分の考えを文章によって表現したり、他人の前で発表したりする経験は、学校や塾ではほとんど経験することがないのではありませんか。
山の学校では、科目を問わず、文を書くこと、自分の意見を表現することを大切にしています。それが学びの楽しさの本質につながることであり、また、社会に出てから重視される力だからです。テーマに即して文章を書くとき、山の学校の先生は、単に生徒の答案を添削する立場ではありません。同じテーマについて、自分も同じ書き手、発言者として授業に参加し、意見を発表します。それぞれの参加者が互いの意見を尊重し、自分の意見を「磨きあげる」貴重なきっかけを得るのです(先生も、です)。あくまでも主役は自分ということになります。
「自分の」意見を表現するのですから、そこに正解はなく、最初はとまどうかもしれません。しかし、単なる感想を述べ合うのではありません。自分の意見に説得力をもたせるためには、なにより「論理的思考力」がものを言います。これを鍛えることは、基礎力の鍛錬と並び、たいへん大きな意味を持つと考えますが、これを磨く機会がほとんどないのが今の日本の実情です(スポーツで言えば実践形式の試合を経験しないようなもの)。
さて、じっくり本物の勉強に取り組みたい会員は、小・中・高校生にかぎりません。山の学校には大学生、一般社会人対象のクラスもあります。今年の四月から、ラテン語の文法、講読のクラスに加え、ギリシア語文法、古文、漢文の講読クラスもスタートしました。真摯な学びの前に、年齢は関係ないとつくづく思います。山の学校の具体的な取り組みについては、ホームページとブログにて日々情報発信していますので、興味をもたれた方はぜひ一度ご覧ください。