浅野です。
『山びこ通信』に書いてある他のクラスの取り組みを参考にして、本日は論理パズルに取り組みました。次のような問題です。
「うそつき村」と「正直村」がある。「うそつき村」の人は必ずうそを言い、「正直村」の人は必ず本当のことを言う。
旅人が村にたどり着いた。その村は「うそつき村」か「正直村」のどちらかである。さて旅人は、その村の住人にたった1つだけ質問をして、「うそつき村」か「正直村」かを言い当てねばならない。何と質問すればよいか?
実はこの問題文には曖昧なところがあり、うそつき村にはうそつきしかおらず正直村には正直者しかいないのか、それともうそつき村にも正直村出身の正直者がいて正直村にもうそつき村出身のうそつきがいるのかが判然としません。後者のほうが厳しいルールですが、今回は前者の考え方でも可としました。
前者の場合だと話しかけた相手がうそつきであるか正直者であるかということさえわかればよいので、そのための質問は無数にあります。このクラスで出されたものとしては、「あなたは赤ちゃんだった頃がありますか?」、「恐竜を食べたことがありますか?」、「私は野球が好きです。あなたは私が野球好きだと思いますか?」といった質問文がありました。なかなかよく練られてあります。いろいろ考えるうちに思いついたのでしょう。
今回はいきなりにしては難しすぎたかもしれません。習ったことをきちんと理解して応用できるようになることも大切ですが、見たこともなく難しそうな問題に対してもいろいろと考えを試してみるという経験も重要だと思います。
よく考えると「かず」のクラスで推理クイズに取り組むというのも自然な感じがします。もちろん、「ことば」のクラスでも・・・。あれ?「かず」=「ことば」?ということ?
本来、境界線はあいまいなもののはずですね。学校教育では、「国語」と「算数」はかなり「違う」科目にみなされますし、まして、センター試験で出題される「国語」と「数学」はまったくの別物です。
私は、我が身を振り返り、中学にはいって学んだ「図形の証明」(ギリシアに由来します)は大事だったな、と今にして思います(自分の中で大事な力を育ててくれた)。あれは私にとって立派な「ことば」の教育でありました。
日本の国語教育では、「考える」ことよりも「思う、感じる」ことを重視しているようです。それはそれでよいのですが、どうして正解を生徒に「暗記」(笑)させるのか?中学時代の私にとって、それはおおいなる疑問でありました。私は黒板に先生が書かれる文字をノートに写しませんでした。で、叱られたこともあります。
こういうことを書くと、「それはおまえが悪い」というおしかりを受けることは覚悟しているのですが(笑)、その逆に「そりゃそうだ」と理解を示してくださる方もおられるのも事実です。同じ問題をめぐり、これほど判断の分かれることはないものだ、といつもおもしろく思います。
一方、図形の証明問題は「正しい考え方」を文字通り体感できます。二つの二等辺三角形が合同であることを証明せよ、と言われ、「だいたい同じに見えるからそんな面倒なことはやらなくていいじゃない?」という「感性」は数学の世界では意味を持ちません。
だから数学は嫌いだと言う人が多くいることも理解できるのですが、逆に言えば、どんなにどんくさくてもよいので、「正しく」考え続ければ、正解が得られるという実感は、多感で理想主義的な中学、高校時代には、大事な経験になると思っています。これを経験しないのは誠にもったいないし、その経験の萌芽を山の学校の小学校クラスでは、ことばであれ「かず」であれ、大事に育てているのですね。
一方、この文章はこう読み取らないといけない、という形の国語指導は、生徒たちの心にどのような思い出を残すのでしょう?
本を読むことが世に言う「読書」ではなく「ゲーム」に成り下がります。先生によっては多様な感じ方を許容してくれるでしょう。しかし、それはクラスの中でのみ成立する僥倖であり、ほとんどの中学生、高校生の前途には「センター試験」という四択問題にどのように「順応」すればよいか?それが「国語」の問題だという錯覚を与え続けるでしょう。
学校の先生も、塾の先生も、本音を言えば「国語」の時間に「正解」を教えたくないと思います。仕事として教えるけれども、人間としては教えたくないのではないでしょうか。
子どもたちから思わぬ意見や感想を聞いて驚き、むしろ感動したいのではないでしょうか。自分の読み方がいかに偏狭なものの見方に基づくかに気づくことは喜びであるはず。生徒の意見はその気づきを促します。もちろん、生徒同士においても、そうあるでしょう。子どもたち、生徒たちの「感性」はなんと豊かなものであるか、それを知り、魂をゆさぶられる思いをしたい(それはクラスの経験でもあります)、と人として願う心をお持ちのはずです。
しかし、目の前には試験がある、と反論されます。立派ないいわけには聞こえません。どのような指導をしても、結果は変わらないどころか、試験対策と称する指導は「国語」に関してはほとんど無意味であることは、先生自身がご存じのはずです。
文章読解に「正解」があるという立場に立つか立たないか、という違いが、国語教育ではその内容と印象に大きな相違を生みます、生徒の心に、そして先生の心に。
これに対し、数学の問題は純粋に正解がある、という立場に立つことができます。「正しい」筋道で論を立て、文章を展開する練習にもなります。つまり、皮肉にも、「国語」の点数を上げるためには、国語の勉強をするより、数学の問題に取り組むことで得られるメリットが大きいということです。
ことばの学びにおいて、多様な解釈を尊重するというはわかるとして、数学にそれがないというわけではありません。むしろ、亮馬先生の「かず」のクラスを見ていもおわかりのとおり、「正解」にたどり着くルートは生徒の数だけある、ということです。そこに生徒の個性の発露が見えて面白いです。
浅野先生のこの日の取り組みに関しても、一応「正解」は想定されるのでしょうが、そのアプローチの仕方には生徒の数だけルートがあり、その「質問」という仕方の「表現」をそれぞれの参加者が楽しむ時間ともなっています。もしかすれば、いろいろと先生が想定された以外にも「正解」が現れるでしょう。これがすばらしい。
教育の問題はやはり、小学校時代にさかのぼると私は思います(本当は幼稚園と言いたいのですが、今回はやめておきます)。
山の学校の場合、「かず」にせよ「ことば」のクラスにせよ、そこで取り組んでいる一つ一つは、入り口の違いこそあれ、どちらも子どもたちの「思考」(ものごとを論理的に正しく考える力)と「表現」(考えた結果を他人にわかりやすく発表する)を育てる教育になっていると感じます。いや、「感受性」だって。いや、友と友の「友情」だって。いや・・・・。きりがないです。
このように丁寧なコメントをいただきありがたく存じます。
>一応「正解」は想定されるのでしょうが、そのアプローチの仕方には生徒の数だけルートがあり、その「質問」という仕方の「表現」をそれぞれの参加者が楽しむ時間ともなっています。
このことについてある一人の生徒のアプローチを紹介します。
旅人がすべき質問:「この村は正直村ですか。」
理由:
<相手がうそつきの場合>
「この村は正直村ですか。」
「はい、そうです。」
「いや、こんな古びれた汚らしい村が正直村であるはずがない。お前はうそつきだな。」
<相手が正直者の場合>
「この村は正直村ですか。」
「はい、そうです。」
「ありがとう、美しい人よ。ここはすてきな村だね。」
ある生徒はこのようなことを時間をいっぱい使って書いてくれました。原文は上の要約よりもっと長く、物語風になっていました。もちろん「正解」ではありませんが、話としてはよくできていたので読み入ってしまいました。最初にまずい質問を選んでしまってはいますが、その質問への村人の応答は論理的です。もちろんこの問題にはふさわしくない答えなので、ほかの要素は持ち込まず相手の村人の発言だけで判断できるように書いてくれと彼には伝えましたが、同時に「話としてはよくできているので消すのはもったいないな」と私の正直な感想も伝えました。ことばのクラスでレトリックを取り上げていたとしたなら模範的でさえあります。