福西です。春学期の最後と、秋学期の今までにした、暗唱です。
百せん百しょうは、
「ぜんのぜん」
なるものに あらざるなり。
たたかわずして 人の兵(へい)をくっするは、
「ぜんのぜん」
なるものなり。
(『孫子』謀攻篇第三・1)
みち に よらざる ところあり。
ぐん に うたざる ところあり。
しろ に せめざる ところあり。
地 (ち)に あらそわざる ところあり。
君命 (くんめい)に うけざる ところあり。
(『孫子』九変篇第八・2)
よく 兵(へい) を もちうる ものは、
たとえば そつぜん の ごとし。
そつぜん とは
じょうざん の へび なり。
その 首(しゅ) を うてば すなわち
尾(び) いたり、
その 尾(び) を うてば すなわち
首(しゅ) いたり、
その 中(なか) を うてば すなわち
首尾(しゅび) ともに いたる。
(『孫子』九地篇第十一・5)
われ 十ゆう五にして
学(がく) に こころざす。
三十にして 立つ。
四十にして まどわず。
五十にして 天命(てんめい)をしる。
六十にして 耳したがう。
七十にして
心のほっするところに したがいて のりをこえず。
(『論語』為政第二・4)
道(みち)の道とすべきは、
つねの道にあらず。
名(な)の 名と すべきは、
つねの名にあらず。
名(な) なき は
天地(てんち) の はじめにして、
名 ある は
万物(ばんぶつ) の母(はは)なり。
(『老子』第一章)
『山びこ通信』にも書きましたが、そつぜん(卒然)という蛇のたとえが面白く、そこからギリシャ神話のヒュドラーや古事記のヤマタノオロチの話に広がりました。(今小学生の間で人気の『妖怪ウォッチ』にも、オロチやキュウビという妖怪が出てくるそうですね。私もそれを教えてもらいました)
ちなみに『孫子』の原文では、このあと、呉王(こうりょ)が「そのようなことができるのか」と孫子にたずねます。孫子は「できます」と答えます。「風で舟が沈みそうな時に、舟に乗っているのが、たとえ仲の悪い呉人と越人であっても、互いに助け合うでしょう。それは左手と右手のごとくであり、そうした死地にあっては、将は兵を卒然のように動かすことができます」と。
春秋戦国時代の当時、呉と越が隣国同士で覇を競い合っていたことは「臥薪嘗胆」でも有名です。そのような二国人でも、「卒然になること」は可能であるというわけです。ところで、「呉越同舟」ということわざが、この『孫子』のくだりにあったとは、私も知らず、目から鱗でした。
以上は蛇足ながら。
『孫子』の兵法は、ここで一度切ることにして、次からは、『論語』の一つを取り上げました。
「われ十有五にして・・・」というのは、おそらく、生徒たちが大人になってからも、「自立の年」や「不惑の年」などの言葉で、たびたび耳にすることだろうと思います。長い文章ですが、繰り返しが多いので、わりとすんなり早く覚えてくれたことに、驚きを感じました。
見ずに言えるようになると、合格というお墨付きを与えるのですが、中には、合格してからもさらに、また列に並び直して、「二重合格」を目指す生徒もいます。このあいだは、「四重合格」まで行っている生徒もいました。
元気な男の子のクラスですが、この調子で続けていけたらと思います。