「山びこ通信(2014年度秋学期号)」より、下記の記事を転載致します。
『フランス語講読』(A・B)
担当 渡辺 洋平
フランス語講読の授業は、春学期から引き続き、A、Bふたつのクラスでデカルトの『方法序説』を読み進めています。Aのクラスの方は、夏期講習期間中も開講したこともあり、ずいぶんと進みました。『方法序説』全6部のうち、すでに第4部の後半に入っています。この第4部は、絶対的な真理を見つけ出すために、ほんの少しでも疑いを差し挟むことのできるものはひとまず誤りとみなして放棄する、といういわゆる方法的懐疑が語られます。その結果として見出されるのが、たとえすべてが疑わしくとも、疑っている自分自身は疑いえなく存在しているのだという真理、つまり「我思う、故に我あり(Je pense, donc je suis)」という真理です。デカルトはここから、魂や神の存在の証明に向かいます。このように、内容的にもやや抽象的、形而上学的になる第4部は『方法序説』の山場とも言うべき箇所です。そのために文章もやや難解になりますが、ひとつひとつ解きほぐしながら読み進めています。また、『方法序説』の内容を当時の学者向けにより詳しく書いた書物である『省察』も、簡単にではありますが、適宜合わせて読むことにより、デカルトの考えをより深く探りながら、何を問題としているのかを考えています。
Bのクラスもそろそろ第3部に入るところです。これまでの人生を振り返る段階が終わり、少しずつデカルト自身の思想が語られ始めます。特に第2部では、真理へ至るための4つの規則が語られます。すなわち、疑いえないものだけを判断に取り入れるという明証性の規則、問題を可能な限り部分に分割するという分析の規則、分析されたものを単純なものから複雑なものへと組み合わせていくという総合の規則、最後に分析・総合において数え落としをしてはならないという枚挙の規則です。これらの規則は、現代でも学問的な思考法の基礎ともいうべきものであり、この意味において、私たちはいまでもデカルト主義者であるわけです。このほかにも例えば、今でも中学校で教わるx-y座標も、その考え方の基礎はデカルトが考案したものです(そのためフランスでは今でもx-y座標のことを「デカルト座標」と呼んでいます)。このようにそれとは知らずとも私たちはデカルトの影響をいろいろなところで受けているのです。
しかしその一方でデカルトは多くの問題も後世に残しました。その最たるものはやはりいわゆる心身問題、心と身体はどのようにつながっているのかという問題でしょう。この問題はデカルト以降、多くの哲学者たちによって論じられてきましたが、いまでも議論はつきず、脳科学や神経科学においてもかたちを変えて問題になっています。『方法序説』においてこの問題が語られるのはまだ先の箇所ですが、好むと好まざるとにかかわらず、デカルトの影響はとても大きなものであり、その影響の大きさも考え合わせながら少しずつ読み進めていきたいと思います。