「山びこ通信(2014年度秋学期号)」より、下記の記事を転載致します。
『ことば』(1〜2年 A・B)
担当 福西亮馬
『保持する力』
Aクラスでは、和歌と俳句を暗唱しています。この原稿を書いている頃には、春学期にしたものと合わせてちょうど10首と2句をしたことになります。秋学期から新しく参入した生徒の二人も元気で、「ぼく(たち)、国語好き!」と言ってくれています。自発的に絵や作文を書いてきてくれたりと、毎回、何かで驚かされることがあります。
秋は月の句をテーマにしました。大江千里「月見れば」、安倍仲麿「天の原」。いずれも友とするにふさわしい名歌です。きっと忘れているだろうと思いながら復習を呼びかけた時、これ以上ないほどの張りのある声で発してくれた時がありました。その時、私は生徒たちの保持する力にびっくりしました。「いつ憶えた(憶え直した)の?」と思わず言ってしまうと、生徒たちは、余裕そうなしたり顔を見せてくれました。
575や、57577のリズムについても、すぐに覚えてくれました。それをすでに知っている生徒は、今ではより自分の物としてくれています。字余りについて、また「ゃゅょ」は数えずに「っ」は1字使うなどのルールを「これはこう?」と確認してくれる時、また、それを踏まえた上で「崩しても良いよ」と伝える時、何気ないことですが、それを嬉しいと感じます。
このクラスでは、俳句作りの紙を渡すと、句会になる日がありました。好きなもの、嫌いなもの、 学校であったこと、お父さんに教えてもらったこと、お母さんと発見したことなどを題材に、行間から溢れる「これはこういうつもり」「こういう意味」ということをつぶさに教えてもらいました。一句書き上げるごとに筆が乗る生徒、昔風の言い回しに興味が出てきている生徒、好きなもののことを慈しみを込めて一途に書き表す生徒、前向きなことを書こうとしてうんと腕組みをしている生徒、いわゆる文字にすることを通して自己を研鑽している生徒。それぞれの俳句の中から、その時のさまざまな様子が見えてきます。生徒たちの心の在り様そのものを、今しかない川面の光具合だと思い、称揚したいと思っています。
本読みでは、これまで一話完結の昔話をしてきました。今学期からは、少し長めの物語にも挑戦したくなってきたので、センダックの『ケニーのまど』(神宮輝夫訳、冨山房)を読み始めています。
Bクラスでは、『孫子』から主に取り上げた8つの章句を暗唱しました。その『孫子』の九地篇第十一の五に、「よく兵を用うる者は、たとえば卒然の如し」「卒然とは常山の蛇なり」という言葉が出てきます。中国の伝説の蛇ですが、頭の部分からやっつけようとすると、尾の方の返り討ちに遭い、尾を打てば首が襲ってくる。そして真ん中を突くと、「首尾ともに至る」とあります。首(しゅ)は「あたま」のことで、尾(び)は「おっぽ」と言うと分かりやすかったようです。それを合わせて「首尾」という言葉になります。怪物話は、このクラスでは好んでしてきたものですが、この日も、いろいろと想像が湧きました。
そこから、折しも台風が近付いていたこともあって、ヤマタノオロチとスサノオの素話をしました。大蛇の首のすべてを酒で酔わせるくだりでは、生徒たちは春学期にした酒呑童子のことをよく憶えてくれていました。そして「もっとこうすればいい!」と、大蛇退治のアイデアを次々と出してくれていました。また、同じ蛇つながりで、へーラクレースのヒュドラー退治も話しました。
次に、天の岩戸の連想を借りて、『太陽へとぶ矢』(J.マクダーモット、神宮輝夫訳、ほるぷ社)の 絵本を読みました。これは太陽の神様の息子が、自分の父親である太陽に会いに行くお話です。四つの試練を受けるあたりが、男の子たちをワクワクさせたようです。それから、工作好きな生徒たちの興味に応じて、クレタ島の迷宮を作ったダイダロス、またイーカロスの翼の話をしました。この稿がお手元に届く頃には、テーセウスのミーノータウロス退治の話と、アリアドネーの糸の機知を話していることでしょう。
このクラスでは、『孫子』はひとまずここでしめくくりとし、次回からは、孔子や老子の言葉を紹介していきます。
A、Bクラスとも、どちらも多様な顔ぶれに恵まれ、彼らに授業の内容を引き出されています。またこの頃は、以前話したことが返ってくるなど、彼らの保持する力に、日々目を瞠っています。