山下です。今日は本の紹介です。
日本語のタイトルは「モチベーション3.0」。ダニエル・ピンクの著作です。邦訳のサブタイトルに「持続する『やるき!』(ドライブ!)をいかに引き出すか」とあります。
山びこ通信をお送りしたある大学の先生から紹介して頂きました。
実はまだ未読状態で^^、感想も何も言えない状態です。
ただ、その先生によると、山の学校の取り組みはこの著作の主張と響き合うようなので、私も興味を持って読もうと思っているところです。
「・・・人間の癖を直すにはしつこさが必要だ。そう、この本はしつこいくらいこの新しい「習慣」「癖」を身につけるための反復練習を要求している。スポーツでも音楽でも一芸に秀でた人がみな通る道。それは驚くほど単調な練習を、驚くほどしつこくやることである。その結果、前人未踏の境地に到達する。そういう技能を持った人が長い目で見れば大きく報われ、目の前のニンジンを追いかけていた人々が地団駄踏んで悔しがる、という結果になる。結果を求めるのではなく、そのプロセスを正しく踏むこと。これが本書でダニエル・ピンクが一番言いたかったことではないだろうか。」
著者は(訳者も含め)ビジネスマンを主に念頭に置いて書いていますが、もちろん本書のテーマは教育の世界にも当てはまります。
様々な分野で「成果主義」(「アメとムチ」、「目の前のニンジン」)が幅をきかせていますが、かけ声だけで「成果」は上がらないようです。
成果主義が悪いのではありません。本当の「評価」とは自分が自分に下す評価です。ややこしいのですが、外部に公開する「自己評価」というのではなく。
カンニングをしてよい点をとってほめてもらっても、自分でそれを反省し、悔しいと思える心など。成果主義は、結果さえ出れば手段はどうでもよい、と考え勝ちです。「背に腹は代えられない」と言い訳しながら、多くの人間は大なり小なり成果主義に組み込まれている。これがモチベーション2.0の世界。
しかし、ここで素朴な疑問が沸いてきます。訳者の言う「驚くほど単調な練習を、驚くほどしつこくやること」こそモチベーション2.0の時代の象徴的学習スタイルではなかったか、と。当然、訳者に聞くまでもなく、「そうではない」というのがピンクの答えでしょう。であれば、この「単調な練習」がモチベーション3.0とどのように結びつくのか、私は興味を持って本書を読みたいと思います。
ただ、読書前の予想をしたいと思います(笑)。
この解説文を読んで真っ先に思い浮かんだのが、今山の学校で取り組んでいる「論語の素読」です。これは、戦前まで続いた日本の伝統的学習スタイルの一つでした(今は骨董品扱いです)。私は、論語の素読を肯定できる自分と、モチベーション3.0を肯定できる自分の両方を知っています(当然です)。では、本書を読むまでもなく、自分の中で両者の関係について答えられるはずです^^
スポーツで言えば、単調な素振りやキャッチボールを繰り返すように、私は本物の基礎については、手に豆をつぶすことを通してしか習得できないと考えています。他方では、そこで終わってはならない、とも。その先があるということです。
読書百遍という言葉が示唆するように、読書百遍すれば、意は自ずから通ずるのである。つまり、基礎を徹底して習得した人は、自在にそれを応用する道が開けるのではないか、そこにモチベーション3.0の世界に心を解放できる期待がもてるのではないか??
では「その先」とはどんなところか、について付言すると、モチベーション3.0においては「あこがれ」や「理想」といった人生を肯定できる精神的要素がキーワードになる気がします。本物の教育とはまさにそこにフォーカスすべきでしょう。
かりにそう考えるだけなら、わざわざカタカナで新しい定義をし直さなくても、幕末の日本の教育はどうであったか?もしかすれば、ピンク氏が驚嘆するような「理想的な教育」の一例があったのではないか、という考え(期待)も沸いてきます(もちろん、この本は私の想像をいい意味で裏切ってくれる「何か」が書かれている私は自分の「先入観」を先に書いているわけです)。
では、当時の私塾の理念は何であったのか。寺子屋で学ぶのは立身出世の手段を得るためだったのかどうか。同じ日本でありながら、おそらく正反対といっていいくらい今とは違う価値観が当時の教育には支配的でなかったかどうか。このあたりも検証していきたいところです。
ところでラテン語に「模範は教える。命令しない」という格言があります。
本書の言う「モチベーション3.0」という言葉で私が今連想するのは、このラテン語に凝縮されています。
昔の日本人が「論語」をはじめとする漢文によって学ぼうとしたのは、人間の生き方の理想を胸に刻むためであったと思います。理想を胸に刻む若者は、モチベーション3.0の価値観で動く人であったでしょう。理屈ぬきにこのことを実践するためには、大前氏の言うように「驚くほど単調な練習を、驚くほどしつこくやる」必要があると思います。ただし、その先の雄飛も胸に抱きつつ。また、何を対象にしつこく学ぶのかを問うべきです。その意味で、私は「古典」の持つ価値を再認識したいと思います。このことについては、山びこ通信の巻頭で書きました。
以上、読書(前)感想文でした。
私も読みました。内発的な動機を重視するという視点は、たしかに山の学校の理念と合致していると思います。
コメントをありがとうございました。今回HPをリニューアルするに際し、あらためて山の学校の理念について考えました。前川先生が言って下さるように、3.0の動機付けは我々の目指すものと合致しているのですが、それはむしろ昔の日本には当たり前のようにあったのかもしれない、と最近思うようになりました。これはあくまでも私の問題意識にすぎませんが。勉強会や自習会に参加する生徒たちの熱意は純粋な学びの気持ちに満ちていて、監督する私たちの心をうつものがあります。しかし、同じ精神は前川先生がご担当のシニアクラスの会員の姿勢にも宿っています。健哲先生が授業風景を撮影された画像が手元にありますが、ノートにびっしりとテキストを書き写し、辞書を丹念に調べておられる様子など。何かのためというのがモーティベーション2.0であるとし、学ぶことそのものを楽しむために・・・というのが3.0であると定義するなら、私は日本の寺子屋や私塾での学びにも興味がわいてくるのです。ローマの時代、子どもたちはリーベリーと呼ばれ、学校はルードゥス(閑暇)と呼ばれはしたものの、子どもたちはすこしでもさぼるとむち打たれました。日本の私塾、寺子屋にムチはなかったと想像します。あったのは、純粋な学びの精神でなかったか、と。ちょっと昨日も竜馬伝を見たので、幕末の教育事情についてもひいき目にみている自分がいたりします(笑)。長文失礼しました。
この本の読後メモ:
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/dan_pink_on_motivation.html ダニエル・ピンク 「やる気に関する驚きの科学」
アマゾンのレビューを見ると星1つの人がいて、私の感想もそれに近い部分もある。日本の受験システムは本来の日本人の学びのポテンシャルを大きく阻害している。逆に、その足かせを取り外せば、社会の Drive! が回復するだろう。アメリカ人にとっては新しい話かもしれないが、日本の場合は違う。読書前に予想したように、本当の答えは明示されていないようだ。私は、10代の生徒たちには「本を読め」と言いたくなった(自分も家庭教師にはそのことだけ言われた)。なぜか?本を読んで大志を抱いてほしいからである。大志を抱けば、雨の中でも裸足で駆け出すであろう。幕末の日本のポテンシャルの高さは、単純な修練を徹底的にやる過程を通して大志を抱かせた。今の日本も単純な修練をさせているが、欠けているのは「大志」の部分だ。古典を暗記することとセンター試験の正解を暗記することでは次元が異なる。今希望があるとすれば、入試の勉強に自分の大志をつぶされないようにどれだけそれをガードできるかにかかっている。ピンク氏も言うのだが、フランス語の試験で1番をとれ、という指示は短期的にはうまくいくが、長期的には「(・・したいから)フランス語が話せるようになりたい」という思いで学ぶ方が強い。現状では受験を「利用せよ」というほかない。英語、同じやるなら限られた枠の中でどのみち減点される勉強に甘んじていてはだめだ。月なみだが、自分という人間が入試の後にも大きく成長し続けられるような準備をしてほしいと思う。入試と共に学びのモーティベーションが下がるような現在の状況はなんとかしないといけない。大学でおしえていたころ、「試験範囲を教えてください」と毎回のように言われた経験があって、今思い出しても悲しい。天下の?京大での話だ。古典についてふれると、幕末の教育方式の弊害もあったと思う。視野が固定されるという点で。「攘夷」を信じたら命も惜しくなかった。だが、視野の狭さは否定出来ない。論語をやったら老子もやる。今はもっと選択肢が広い。幕末の時代をリードした人間は視野の広さを備えていた。私は東洋の古典にシンパシーと尊敬をもつが、西洋の古典の底力にも敬意を表したい。これをほとんど無視して今の時代に何かを築こうとしても視野の狭さが足かせになる。中学高校、せめて大学生時代に、もっと古典を熟読し、考えの深さと視野の広さを身につけて欲しい。これは未来の指導者に対する思いである。ピンク氏の言う3.0の価値観にせよベストセラー!と呼び声の高い本の主張も、古典の中にすべて書かれている。否、書かれていないと本当に主張できるためにも、もっと古典を熟読、多読せよというのが自分に対するメッセージともなった。