5月1日の勉強会に先立ち、論語の素読を行います。私自身「なにかよいこと」につながっていると信じるので行うわけですが、ちょうどこのことについて、一昔前に出版された『人間の建設』(小林秀雄・岡潔対談)にわが意を得たり、と思える意見が見つかりましたので、ご紹介します。
小林:
素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。
素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。
丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかもしれないが、私はここに今の教育法が一番忘れている真実があると思っているのです。『論語』はまずなにを措いても、万葉の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。
「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としての方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。
(小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』)
昨日保護者にお話したのですが、イタリアは古典を暗記させるようです。また、日本でも最近は古典の暗記を重視し始めました。小林秀雄、岡潔が参観に来ても恥ずかしくない教育を山の学校ではやりたいと思います。小林秀雄は、歴史の教育について言いたいことが山ほどあったようです。教科書に沿って教えるやり方は「歴史を愛する」心を育てることにならないと繰り返し述べていましたが、同じことは、ことばやかずについてもいえると思います。つまり、その教科の本質を愛する先生が教えないと、何も始まらないということです。料理でたとえるとプリントアウトされたレシピをいくら整備しても、厨房に配置する人数を最適化しても、それが教育をよくする本質ではありません。私はよく言うのですが、自分が自分の授業を聞いて「楽しい!」といえるかどうかが試金石です。料理で言えば、自分で作った料理をおいしい!といえるかどうか。もちろん、本物のプロと呼ばれる人は「まだまだだ」というわけですが。