高木です。
天気が良かったので、今回は外で作文をしました。
山の上からは、遠くまで景色が見渡せます。M君はこんな文章を書いてくれました。
けしき
今日はことばのクラス、そとでやる。
京都タワーがみえる。
夕日が見える、でもまだ早い。
町のけしきがきれい。
もみじの木にのぼる。
この木がじゃまでなにも見えない。
スミレの黄色がさいている。
白の花もさいている。
いまM君の目に見えているもの、いまM君の感じていること、それが素直に言葉で表せています。
「夕日が見える、でもまだ早い」という文章には、夕日が待ちどおしい気持ちがにじみ出ています。
また、「スミレの黄色がさいている。/白の花もさいている」という表現からは、どこか詩的な香りがします。おそらくM君にとっては、それが何の花であるか、ということよりも、そこにぽっかりと咲いている色彩の方が印象的だったのでしょう。本来ならば、黄色いスミレ、白い花、とするべきですが、なんというか、それでは壊れてしまうような色の鮮やかさが、「スミレの黄色」や「白の花」にはあります。芭蕉の「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」ではないですが、M君の心に浮かんだ「けしき」の生のままの表現は、まさに「発句」なのです。
ことば4年生のクラスでは、こうしたM君の「生きた言葉」を大切にしていきたいです。
M君ぐらいの年代の男の子は、こうした詩のような作文をかく力があっても、発表するのは恥ずかしいと感じるものです。その気持ちをそのまま外に表現できる機会をもっていることは、私から見ても、うらやましいですね。私はM君が「じゃま」と書いたモミジの木に登って京都タワーをじっと眺めている・・・とても充実した時間でした。それが小学校6年になるまでの毎日でした。左手には大文字山。眼下に北白川小学校。正面遠くには京都タワー。目に見える景色は昔も今も変わりませんね。