浅野です。
まず、前回の授業紹介に山下太郎先生がコメントしていただいたことについてです。
私が言いたかったことを上手に言っていただいて感謝しております。このクラスは「ことば」という枠であり、「ことば」の技術についてのみを取り扱ってもよいのですが、「ことば」の先には大切なことがたくさんあると思います。人と協力することや自分で考えることなどがそうでしょう。口先だけが達者になり、他人を蹴落としてでも自分だけがいい思いをできるようになるために「ことば」を学ぶのではありません。
昨年度の最後の授業時に、この「ことば」の授業でしたいことを生徒たちに聞きました。そうすると工作をしたいということで意見が一致し、それをすると約束しました。そして今はその約束どおりに工作をしています。また、何人かの生徒たちは設計士の仕事に興味を持っているようで、仕事について考え、体験してもらいたくもありました。
そういう経緯で今に至ります。理想ばかりが高すぎて、私の技術が追いついていない部分も多々あると思います。そのときは遠慮せずにご指摘、ご提案ください。
それでは具体的な内容の報告です。工作も他の生徒がかいた設計図をもとにして作る2週目が終わりました。やはりわかりづらい点がたくさんあったようで、その都度かいた本人に確認をしていました。そうしたやり取りの中で、自分はわかっていても、それを相手に伝えることがいかに難しいかといったことを感じてもらえれば幸いです。
次回は今回の反省を踏まえて、さらにわかりやすい設計図をかいてもらいます。
山の学校ならではの取り組みです。文科省がかつて「ゆとりの教育」を標榜しましたが、本当はこういうことをしたかったんだろう
と想像します。それには前提条件がいろいろ必要でした。たとえば、1)試験のことは当面気にしない、2)少人数の指導体制、
など。1)を気にしていたら工作はやってられないのですが、私もふりかえると、小学校の頃は、家に帰るとものばかり作ってい
ました。学校の帰りには、店先に置いてあるダンボールを物色し、持ち帰りました。自分で「設計図」をつくり(といっても、
単純な展開図程度)、穴を開けたり、セロテープで何かを取り付けたり。時間がとまっていた、というか、周りは視界から
いつも消えていた、ということを思い出します。集中していたのでしょうね。できあがりは写真も残っていませんが、じつに
くだらないものばかりでしたが、不思議に親はなにも言いませんでした。5年生の終わりまで。6年になると、スパルタ塾に
通わされました。親も後で認めていますが、人生で最悪の一年でした(苦笑)。このことは、英語教育のことにかこつけて、
次のエッセイで少しふれています。http://www.kitashirakawa.jp/taro/english16.html 親に迷いがあったのです。だれかに
吹聴され、当時京都で一番難しい男子校を受験しろ、と6年になって父に言われたのでした。「???」という顔をしていた
私は母に連れられ、入塾テストを受けることに。誰にでも言うセールストークでしょうが、「塾始まって依頼」という高得点だっ
たと。それに気をよくした両親は、無理をして「毎日教室」に通わせること(=月謝は当然一番高い)に決定。日曜日も
朝から夕方まで「日曜進学教室」という模擬試験を受験する補講も受けることに。かくと長くなりますのでやめますが、
じつに非生産的な時間でした(子どもに創造的な勉強・・・というのはまだ無理でしょう)。最後は、父が「塾をやめろ」の
一言で転機が訪れます。12月に塾をやめてからというもの、自分で工夫して必死で勉強しました。今思い出してもよく
がんばったなあと思えるくらい、自分で自分に負荷をかける工夫を次々編み出しては、実践しました。入試にはすべりました
が、父にはこの時期の勉強は輝いていた、偉かった、とほめてもらいました。中学以降は平凡な中学、高校に通いましたが、
学校の勉強で困ったことはありません。思うことは、小学校時代の手を使った遊び、しかも集中して取り組む経験。これが
勉強に向かったとき、とんでもない力を生むということです。私の悪い癖で、自分の体験からついつい一般化してしまう
のですが、浅野先生もそんなことはありませんか?ほかの先生方も。じつは、青春ライブ授業で他の先生の小学校時代の
体験などを聞いていますと、結局しりあがりに勉強の力をつけている方は、みな共通して小学校時代に遊んでいます。
それは、電気仕掛けの受け身の遊びでは決してなく、自分で手応えのある現実に立ち向かっていくような遊びです。