「山びこ通信」最新号ができました。
どの原稿も力がこもっていて、個人的にたいへん充実していると感じています。
さて、今回の巻頭に次の拙文を掲載しました。
「好きこそ物の上手なれ」という言葉について
聞くところでは、世界史未履修の学生を対象に大学側で補習をするところもあるのだとか。
何か、万事手取り足取りの世の中ですね。私見では、入試対策は本人が自分の問題として取り組むことであり、学校が手取り足取り面倒をみたり、周囲がそれを期待するのは行き過ぎだと思っています。
あの学校は、入試対策をしてくれるからよい学校だ、というのはあまり感心できる評価では本当はないのです。
なぜかといえば、大学に入ってから、自分で勉強できる学生になれないケースが多いからです。なれるならよいのですが。
「好きこそ物の上手なれ」という言葉について
「好きこそ物の上手なれ」という言葉がある。これは誤解されやすい言葉の一つ
である。現代では個性が偏重され、好きなことを伸ばすことがよいことであると
いう考えが根強い。その結果、「好きでないこと」は「苦手なこと」として、最
初から無駄なこととして平気で切り捨てる。このような風潮が学校教育の現場に
おいて見受けられる。「好きでないこと」を強いる「我慢」は個性を損なうと考え、最初から「好きな
こと」に絞って取り組めばよいと考える。だが、その結果は単なる勉強のつまみ
ぐいで終わるケースが多い。事実、最初「好き」だったことにもやがて興味が失
せ、「好きなものは何もない」と答える若者が年々増えている。「好きこそ物の上手なれ」という言葉は真実である。だが、「好きなことだけやっ
ていたら上手になる」という意味では決してない。学校教育において、生徒たち
は「好きなこと」だけでなく、「好きでないこと」も含めて忍耐強くやり抜くべ
きなのである。学校の教科であれ、人間関係であれ、苦手意識を克服して(また
は経験して)こそ真の自信(または幅広い視野)が身につくからであり、その結
果、好きなことも一層好きになり、得意になるからである。「好き」の意識を育
てるには、「苦手」意識から逃げない心がけが何より大切なのだ。富士山も、広い裾野があってこそ、高くかつ安定して見える。普通のビルの構造
で、あれだけの高さを実現することは不可能である。言い換えるなら、「好き」
とか「得意」というプラスの意識は、「好き嫌い」を問わない経験の「幅」が前
提になる。幼稚園では「なんでも食べる子丈夫な子」と教えている。学校教育においても、
教師や親は、最初からある限られた目的を設定することによって、子どもたちの
「知的偏食」を助長することがあってはならない。
僕は我慢は我慢しろと言われてするのではなく、
ここは我慢しないとなと自分で思ってするものだと思っています。
あるいは我慢しているという意識もなく我慢ができることが大切です。
好きでないこともといいますがむしろ好きでないこと(嫌いなこと、無関心なこと)のほうが多いのが世の中です。
好きなことなのにそのための我慢ができないということはそれほど好きではなかったという意味だと思います。
ものすごく好きで他のものとは変えられないほど好きであれば多少のことは気にならないはずです。
多くの人には仕事はつらいという認識があるので仕事を楽しいという認識に変えられるようになりたいです。
山下です。
コメントをありがとうございました。仰るように「我慢」を伴わない仕事や勉強はないと思います。それを他人から
言われてしぶしぶやるのか、自分で前向きに取り組めるように工夫をこらすのか。大きな違いがあると思います。
工夫を凝らして何か理解が深まったり、手応えを感じたりできると、似たような試練が訪れても、なんとか対応
しようという気になりますが、いつも他人に命令されて努力している演技だけしていると、いざというときに、
力が出ないというか、逃げ出したくなると思います。私がこうかくのも、学校時代に好きなことも嫌いなことも、
いろいろ経験できたので、自分の弱さや負けパターンも存分に味わい尽くしたからだと思います。
「経験は最良の教師」という言葉がラテン語にありますが、ここでいう経験はじっさいには「失敗」と同じ意味で
理解すると、私の中では納得がつきます。
失敗を通し成功するというストーリーもさることながら、失敗を経験してこそ他人の挫折にも共感できるわけです
から、私は学校のカリキュラムについては、「大人の経験」に照らして早い段階から科目の取捨選択をすべきで
ないと思いました。
ひらたく言えば、「嫌い」とか「苦手」とか「わからない」といったネガティブな気持ちもじゅうぶん経験しないと
本当に好きなもの、得意なもの、おもしろいものにも出会えないように思います。それゆえ、そのチャンスを
大人が「試験で受かりやすくするために」という「大義」をかざしてつみ取っているように私には思えました。
(世界史未履修の問題に際して)。
話は大学教育にも飛びますが、今は昔、「一般教育」というのが大学の1,2年時代にありました。専門教育に
対しての一般教育です。この制度も「無駄」なものとして90年代につみ取られました。
書くとまた長くなるのですが、私は、世間の言う「無駄」(幼児に「歩く」経験をさせる、小学生には辞書を引かせる、
大人にはラテン語、ギリシア語の活用を覚えてもらう etc.)ばかり仕事としてやっていますが、「無駄」と思える経験
の中に、個人が自信をもって人生を生きるきっかけが含まれていると信じるからです。
いきなり意見を書き込んでよかったかのかと思いましたが、返事ありがとうございます。
「強制するのは良くない」という意見には賛同いただいたようでよかったです。
ですが仕事を勉強を楽しめるようになりたいという考えはそれほどまかり通ってないように思います。
とにかくできない、やりたくないという気持ちを持っている人が大半かと思います。(どうすれば「やりたくない」を「やりたい」に変えられるかを考えない)
>、「嫌い」とか「苦手」とか「わからない」といったネガティブな気持ちもじゅうぶん経験しない
これについてはむしろ、ネガティブな気持ちというのは何も考えなくても自然に身につきます。
しかしポジティブな気持ちはポジティブになろうと思わないとなかなか身につかないのが世の常です。
>いきなり意見を書き込んでよかったかのかと思いましたが、返事ありがとうございます。
こちらこそ、書き込みを有り難うございます。
コメントスパム対応のため、このところ試行錯誤を続けていました。
私自身コメントをはねられる時もありました。そんな中、ご迷惑をおか
けしなかったかと案じています。お気づきのことがありましたら、いつでも
ご意見をお聞かせ下さい。
>「強制するのは良くない」という意見には賛同いただいたようでよかったです。
有る意味で教育は「強制」ですが、「過度に強制」というのは、何かに付け
弊害があるものですね。
>ですが仕事を勉強を楽しめるようになりたいという考えはそれほどまかり通ってないように思います。
>とにかくできない、やりたくないという気持ちを持っている人が大半かと思います。(どうすれば「やりたくない」を「やりたい」に変えられるかを考えない)
ご指摘の視点は本当に大事だと思います。目先のえさで釣っても、それが
本当に「やりたい」という心に火を付けることなのかどうか。えさがあろうが
なかろうが、やりたいものはやりたい!おもしろいものはおもしろい!と言える
「何か」が勉強にせよ、仕事にせよ、ほんとうは潜んでいます(と思います)。
それを教える者や学ぶ者、また、家庭や社会で「働く」者が実感しなければい
けないと思います。自分は何も「楽しめるような工夫をしない」で、周囲に
「学べ、働け」とは言ってはいけないと思います。言うと互いに不幸になります。
だから、先生や親も含め、大人がまず「楽しく」学ぶことが大切で、この態度
が子どもたちの教育をよくする上で大切なポイントだと私は思っています。
実体は、先生も親も、too busy to study. ということかもしれません。
>>、「嫌い」とか「苦手」とか「わからない」といったネガティブな気持ちもじゅうぶん経験しない
>これについてはむしろ、ネガティブな気持ちというのは何も考えなくても自然に身につきます。
>しかしポジティブな気持ちはポジティブになろうと思わないとなかなか身につかないのが世の常です。
仰るとおりです。そして、私の元の文章の趣旨は、世界史を学ぶことで
得られるポジティブな経験も、ネガティブな経験も、ともに大人の「よかれ」と
思う考えによって、生徒たちがそれを吟味する以前に奪ってしまっていると
ことが問題ではないか、ということでした。