目黒のさんまをよく味わうために(かず1~5年)

福西です。「かず1~5年」クラスの所感を述べます。

「電線の上にカラスが羽とまっていました。鉄砲で1羽撃ち落としました。さて電線の上には何羽いるでしょう?」

最初に言いますと、これは引っかけ問題です。頭で考えすぎて現実に見落としのある例として、時折引き合いに出されます。出題者は「0」と答えて欲しいのですが、なぜかお分かりでしょうか。

ただ私がこの問題の出題者なら、やはり「0」だけでなく「2」も、そのどちらでも理由を付して答えてもらう限り、「その理由に対して」の丸を付けたいと考えています。

というのも、もしこの問題の答を「0」と固定してしまうと、たちまち「答を覚えればよし」とする風潮ができてしまうからです。(そして「0」でないと駄目とする圧力が、数学嫌い(反発)を作ると思います)。

従来の風潮の反省として出されたはずの問題が、従来よりもその風潮がより大きくなる原因として、その中に飲み込まれてしまうというのは、実に恐ろしいことだと言わねばなりますまい。

「2ではなく0」というところに「あれ?」となったからこその面白味が、「出題者の意図に合わせねばならない」と変容した時にすっかり抜け落ちてしまう現象──これを私は仮に「目黒のさんま化現象」と呼びたいと思います。

どんな問題でも、「ちょっと立ち止まって、見落としがあるかどうか」を反省することは、いいことです。そのための練習として、クラスでも「まちがい探し」をよくしています。そして見つけた「まちがい」に対しては、「これはどういうまちがいであるか」つまり個数か、色か、形か、場所かなどの理由までを説明してもらっています。

またパズルもよくしています。パズルは、純粋に論理的に考えるための問題ですが、見落としているヒントがないかどうか、またそれ以前に、「これはどういう問題であるか」というルールをしっかり確認してもらうための練習でもあります。

最初のカラスの例で言えば、「これは純粋な計算問題ですか? それとも引っかけ問題ですか?」と一言、問題形式を確認することができれば、言うことなしでしょう。ただそれはちょっと行きすぎかもしれません。

数学には二つの深みがあると思います。一つは「抽象化」の深み。もう一つは「前提」の深みです。

「バスに10人乗っていました。2人降りました。今何人乗っているでしょう?」

という問題では、よく「運転手は数えますか?」という質問がなされます。そうです。「お客が10人」と書くべきところを、簡略化して書いていることへの質問は「前提を深める」意義があります。

一方、「いちいち確認していたら問題が進まない。そういう約束で解いているのだから」というのも道理です。これは、「りんごが2個、みかんが2個。あわせて何個でしょう?」という問題で、「りんごとみかんはそもそも別物だから合わせられない」という訴えと似ています。

「むしろ自分で定義した意味の下で、個々の違いを無視(=同一視)することで、計算ができたり、複雑さを簡単にする視座が得られる。そうした抽象化が数学の取り柄である」とも言えるわけます。その部分をわざわざ捨ててしまっては、これもまた数学の「目黒のさんま化現象」となってしまうでしょう。

いわゆるマグリットの『これはりんごではない』という絵を見て、「りんごを描いているのだから、りんご」と言うのも、「りんごの絵だから、りんごではない」というのも、どちらも正解のようなものです。

さて、小学校の文章題でしばしば見られる早合点の「まちがい」や、ひいては算数嫌いにある根っこは、ある生徒の場合は「抽象化の練習不足」にあるでしょうし、またある生徒では「前提の確認不足」にあるでしょう。両方とも栄養を補給することが大事だと思います。

ただ山の学校では週1時間しかないので、どうしても前者だと十分な時間が足りません。(家では、単純計算で1週間7倍以上の時間があります)。そこで授業ではむしろ後者をメインにして前者を後押しするのが効率的ではないかと考えています。
(それはしかしながら、いつでも「何で一番困っているか」の生徒の現状によります。目の前の一問一問に、ドリルを中心に応援することもあります)。

けれども最終的には「前提をよく把握し、抽象化に没頭する」という「鬼に金棒」という希望に変わりはありません。そしてその両方の意気込みを支える大前提は、「考えることは楽しい」という経験です。

それがすべての大前提であるという考えで、クラスでは取り組んでいます。

油もあれば焦げもあるような、「焼きたて」の「本物の目黒のさんま」の味を、いつまでも覚えてくれていて、小学校の算数の間だけでなく、中学校に上がってからも追い求めてくれるような、そんな「やる気」の根っこに当たる思い出作りに、今は腐心しています。