高木です。更新が遅くなりました。
今日も、いつものとおり、中也の詩を朗読しました。「六月の雨」という詩です。
またひとしきり 午後の雨が
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
眼うるめる 面長き女(ひと)
たちあらわれて 消えてゆく
たちあらわれて 消えゆけば
うれいに沈み しとしとと
畠の上に 落ちている
はてしもしれず 落ちている
お太鼓叩いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
お太鼓叩いて 笛吹いて
遊んでいれば 雨が降る
櫺子(れんじ)の外に 雨が降る
毎回の朗読において、少しずつですが着実に、M君の成長が感じられます。今日はあいにく(?)雨は降っていなかったのですが、M君の朗読を聴いて、なんだか静かな気持ちになれました。
またM君は、「畠」という字が、学校で習った「畑」と違うということも発見してくれ、「下に『廾』をつけたら『鼻』やな」とも言ってくれました。たしかに言われてみればその通りです。「畠」と「鼻」には、一体どんな関係があるのでしょう。
漢字は、先々週に引き続き、人体に関わるものについて、成り立ちを学びました。前回は体躯の各部(脚、腹など)だったので、今回は体内(胃、骨、肺、脈、脳など)です。いちばん複雑だったのは「臓」です。それが「かくれる」という意味になったのは、家「臣」が「戈(ほこ)」を持って草の蔭(艹)にかくれたからなのですが、上向きの目の形である「臣」を見て、それが「月」に似ていると言ったM君の解釈もまた、魅力的でした。こうして想像力を働かせることは、漢字を楽しむためには不可欠であり、また漢字を学ぶことは、想像力を涵養することになります。
先週で芥川龍之介の『トロッコ』を読み終わりましたので、今週からはアンデルセンの『絵のない絵本』を読んでいきます。
ある貧しい絵描きの少年のもとに、毎夜ごとに月が現われ、世界の各地で見てきた情景を、少年に話していきます。そして月はこう言います。「いいかい、わたしの話すことを絵にしてごらんよ。すばらしい絵本ができるぜ。」
月が話してくれたのは三十三夜まであり、そのすべてを読んでいくことは難しいかもしれません。しかし、じっくりと一夜づつ読んで、それがM君にとっての「千夜一夜物語」の端緒になれば、と願っています。
また絵描きの少年と同じように、M君にも物語の情景を絵にしてもらおうと思っています。言葉から情景を立ち上げることが、物語読解の一切の原動力です。そして絵のない絵本とは、想像力のなかで完成させる絵本であり、それゆえに、もっとも豊かで色鮮やかな絵本なのです。
>物語の情景を絵にしてもらおうと
絵も言葉も、表現したいと「ほとばしる」魂にとっては、同じ一つの結果なのでしょう。
言葉といっても、高木先生は「音読」を大切にされています。絵も言葉も音(音楽)も・・・
と言うべきですね。