福西です。
私が最近目にした光景です。公園で子供たちが遊んでいました。彼らは、こんもりしたサツキの植え込みの奥に、体がすっぽり収まるほどの空洞を見つけました。その場所を「秘密基地」と名付けていました。そして、外の物を中へ運び込んだり、また中の物を外へ取り出したりと、延々とそれを繰り返して遊んでいたのです。
素手で遠くから重たい石を引きずってくる子もいれば、植え込みに投げ捨てられた空き缶を基地の目印に見立てている子もいます。
大人にとって、空き缶はただのゴミであり「誰がこんな場所に」という憤る物以外の何物でもありません。ですが彼らはそれも承知の上で、「じゃあ、こうしよう」と別の用途を考え出していたのです。(その顔つきが余裕しゃくしゃくとしていたことが印象的でした)。
また石はと言うと、基地の中の椅子として据えられていました。けれども「これでよし」となった後、しばらくするとまた「やっぱりこれでは邪魔だ」と外に追い出されていました。(その思い切りが、現に逞しいと感じられたのでした)。
さて、秘密基地にした穴は、偶然のもので、大きさが決まっています。また道具を持っていないことや、ゴミがあるという状況は、現実の不合理な制約です。けれどもそうした条件をルールにして、「どうすれば遊びが面白くなるか」ということを、彼らは夢中になって考えながら遊んでいたのでした。
この経験は、小学校に上がってからの「どうすれば勉強が面白くなるか」という話と相似であるように私には思われます。なぜなら、楽しくする工夫の仕方が同じであり、かつ自発的であるからです。
(もちろん「勉強のために遊ぶ」というのも本末転倒な話です。それは昔話によく出てくる「隣のおじいさん」を連想すれば分かると思いますが、純粋に遊ぶところからにじみ出てきた結果が、勉強のご利益にもなるというのが本来の認識です。「勉強のために遊ぶ」というのと、「勉強のために勉強する」(勉強のために遊びを犠牲にする)というのとは、ちょうど下敷きの表と裏のような関係であり、裏返したところでどちらもその薄っぺらさに変わりはありません)。
よく遊ぶ生徒は、ある程度のところまで工夫が達すれば、それまでになかった遊びの面白さ、見晴らしが得られることを知っています。そしてその経験を雛型として、勉強にも応用を利かせることができるという強みを持っています。(それをしたことがない人でも、それをするポテンシャルはすでにあります)。
「ああでもない、こうでもない」ということに自発的であること。そのために工夫を惜しまないこと。これは「学ぶ」という側面だと思います。
一方、「学ぶ」に対しては「教わる」という側面もあります。
学校では「これはこうです」というように教わります。その内容をしっかりと聞いて、吸収することはもちろん大事です。教わることを疎かにしてはいけないと思います。文字の読み方や書き方、色々な物の名前や出来事、数や計算の仕方といったことは、どれ一つとってみても、自分一人では発明できないものだからです。教わることはまさしく勉強の始まりです。そしてそれをもとにして、「ああでもない、こうでもない」と学ぶことが実際にできるようになっていきます。
ただし、「こうです」と教わることも、「ああでもない」と考えることも、どちらもその一方だけをしていると、土地の養分と同じで、疲れてきてしまいます。それなので実際には、その行き来をすることになります。
一つ「こうです」と習い、それにまだ得心がいかないうちは、「ああでもない…」と考えあぐねることになる。そのうちにふと「そういうことだったのか」と見晴らしが開ける瞬間がある。けれども次の瞬間にはまた「あれ?」という不確実な視界に戻る。つまり「こうでもない…」となります。そして本を読んだりして、また「こうです」と教わる。すると、それまで思いもつかなかった新しいこととして吸収される。けれどもそれもまたもちろん十分な理解には至らず、「やっぱりどういうことなんだろうか?」という疑問が生まれる。この繰り返しが、勉強の過程です。
そして、逆のことを考えたり、考えが逆だったことに気付いたりする。そのようにしながら、でも、これまであった偏見については、少しずつはがれていくことを内に感じる、それが勉強の中身だと思います。(もしそうならなければ、それをいくら「勉強した」と言ったところで、勉強であると私は認めたくはありません)。つまり、勉強の本質とは「こうだ」と言えることではなくて、むしろ「ああでもない、こうでもない」と言えることの方にある、と私は言いたいのです。そしてそのことは、最初に挙げた子供たちの遊びで、穴の中に運んできたかと思えばまた外に出すということを延々と繰り返すこととも似ていないでしょうか、と。
「勉強の仕方が分からない」ということをよく耳にします。それならば、私が思うに、自発的にするとはどういうことだったのかを、遊びから教わることです。それは本当ならばむしろ簡単なはずのことで、自分の遊び方を思い出せばいいのです。けれども本当にあとでその遊び方を思い出すためには、それ自体は一度忘れてしまうくらいに身に染み込ませておかなければならないでしょう。そのような「板についた遊び方」が、今はとても難しいのだと感じます。
自分なりに工夫して、それまでと違った見晴らしに一度でも歓喜した経験があるならば、それを雛型にすればいいだけであり、その部分までわざわざ人から教わる必要はありません。その場合に必要なのは、時折思い出すための刺激くらいなものです。
ただ、もし、そのような自発的な思い出が、ただの一つもないとするならば(そんな人はいないとは思いますが)、そこではたと、自身には何の助けもないことに、あるいはそこまでいかなくても、希薄であることに気が付いた時に、どう取り返しを付ければいいのでしょうか。まだ十代にもならないうちに、勉強ができないことよりも、その雛型がない(または希薄である)ことの方を、私はむしろ恐れます。
「どうすれば勉強が面白くなるか」という問いには、では「どうすれば遊びが面白かったか」と、一度問い自体を立て直してみることだと思います。そして、もしそのことで思い当たる雛型が自分にあると確信できるならば、次に「どうすれば勉強でも『それ』と同じようにできるか」と考えてみることができるはずです。そこにはその人なりのオリジナリティがあると思います。それが一回でもうまく回れば、あとはそれの繰り返しです。
そのように考えると、「よく遊び、よく学べ」と言うのは、「遊びの中にも学びあり、学びの中にも遊びあり」とも意訳できるのではないでしょうか。