ことば6年(『モモ』を読む)

福西です。このクラスでは、4月からエンデの『モモ』(大島かおり訳、岩波書店)を音読しています。今は15章を読み終え、残すところあと70ページとなりました。

私自身、この本は何度目かの再読になりますが、「音読で読み通した」経験としては初めてのこととなります。そのような体験をさせてくれたKちゃんとYs君に何よりまず感謝したいと思います。

さて、私が個人的に感慨深かったのは、12章「モモ、時間の国につく」でした。モモがマイスター・ホラの居場所で経験したこと、すなわちモモ自身がその心の中に持っている「時間の花」を垣間見た箇所を精読できたことです。それはほとんど私にとってもまっさらな体験でした。しかも以前の私の記憶では、モモがそこで見た「時間の花」は「人間すべての時間」だと思っていたのですが、実はそれがモモたった一人分だったのです。その記憶の間違いを訂正できたことが大いに収穫でした。

マイスター・ホラは時間の花を見たモモに、こう言います。

「おまえの見たり聞いたりしたものはね、モモ、あれはぜんぶの人間の時間じゃないんだよ。おまえだけのぶんの時間なのだ。どの人間にもそれぞれに、いまおまえが行ってきたような場所がある。」

と。

そして「時間の花」は、一人一人異なった見え方がするとも書かれています。モモの場合は、それは天上に輝く天体の音楽と共に、泉の中から花の一つが咲き出ては一つが枯れていく、悲しいとも嬉しいともつかない光景でした。

それを見てきた後、モモはこう願います。

「あそこで聞いた声を、うたって聞かせられるといいな。そうしたら、なにもかもまたよくなると思うわ。」

と。

モモが素晴らしい「聞く」才能を持っていることが物語の前半のテーマだとするならば、その同じモモが、自身の時間の花について友達に「話したくなる」ことが、後半のテーマとなっています。

この後、モモは、カシオペイアとともに、以前の円形劇場の仲間たちのもとを訪ねて回ります。カメを連れてマイスター・ホラの場所へ行き、そしてもとの世界に戻ってきた時にはすでに1年が経っていた、というのは、あたかも『浦島太郎』のお話を思わせます。

けれどもこの物語の含みはそれだけでありませんでした。帰ってきた世界では、誰もが忙しくしており、モモが自分から話したいと思えるような人は、すなわち親身になって彼女の話を聞いてくれるような人は、一人もいなくなってしまったのです。そしてカシオペイアともはぐれた時、モモはとうとう、かつて経験したことのなかった孤独を味わいます。

今回、そのモチーフが、プラトンの『国家』で語られている「洞窟の比喩」だと気付いたのでした。そしてエンデに「してやられた!」と思い、以前はそこまで自分が読み込めていなかったことにハッとしました。すぐれた作品にはこのような魂のターニング・ポイントがあるものなのですね。

さて、この後どうやって作者は物語を終わらせるつもりなのか、それもあと残りわずかなページで…というのが、生徒たちの関心の的です。あと授業は6回。毎回、少しずつページを開くのを、とても楽しみにしています。

ところで、これは昨年の年の瀬のことになりますが、二人に「クリスマスのプレゼントは何を頼んでるの?」とたずねたことがありました。その時、Kちゃんだけが「うーん」と首をかしげていました。そしてようやくぽつりと、「時間が欲しいかなあ」と言ったことがありました。

私は、それについてKちゃんが自分なりの満足のいく答を見つけ出してくれるように、また大いに葛藤してくれるようにと願いました。

春学期の一番最初の授業で、私は確かに二人にこう言いました。

「私は二人のことが好きです。二人の将来が楽しみです。でもそれは、二人が将来『有望』だからだとか、何になるかを『予想』できるから、そう思うのではないんです。これがもしトマトの木だったら、トマトになることが分かっていて、トマトが実ることが嬉しいから、種をまくわけです。そして実際にトマトが実らなかったら、悲しいわけです。お百姓さんはそう思って、種を植えるし、育てます。でも、人間はもっと複雑です。何になるか分からないということは、すごいということなんです。すごいからこそ、何になるか予想がつかない。その時の誰にも予想なんてできない。たぶん、お父さんにもお母さんにも分からない。ましてや他人である私に分かるはずがない。だからそんな私には、二人が何になるか予想できないこと、そのことが楽しみなんです。それは、立派なトマトが実るということで、楽しみだというわけとは違うんです」と。

さて、『モモ』に描かれているような本物の時間というものが、生徒たち二人の中からはこれからどのように紡がれていくのでしょうか。そしてそれがまた、どのような風景にかたちづくられて、これから出会う人たちや周りの人たちの心にも映じて行くのでしょうか。そんなことをただおぼろげに想像しているこの頃です。

いつか生徒たちが自分たちの「時間の花」を見ることができますように。そしてゆっくりと十分な時間をかけたのちに、物語の中でモモがそうしたかったように、自分たちの見たものについて、ほかのだれかにも話すことのできる人となってくれていますように。