高木です。
今日は、K君が書いてきてくれた「自転する男」の感想文の清書を見直した後、新しい物語を読みました。ご存知の方も多いと思います。『どっこいしょ』という日本の昔話です。
男が嫁の母親のいる里で御馳走になり、その味の虜になったのは、「だんご」という名の食べ物でした。母親から教わった「だんご」という名を忘れぬようにと、嫁の待つ自宅へ帰る道すがら「だんご、だんご」と口ずさんでいた男は、道中、溝を飛び越えるときに、つい「どっこいしょ」と口にしてしまいました。そこで、「だんご」が「どっこいしょ」に入れ換わってしまい、そこから「どっこいしょ、どっこいしょ」と、思い違えたまま家に着いてしまいました。嫁に、「おまえの里で『どっこいしょ』というものを御馳走になって、とても美味しかったから、その『どっこいしょ』というものを作ってくれ」と言っても、もちろん、嫁にすれば何のことか分かりません。「おまえのうちで食べたものを、知らんという話があるもんか」と男が嫁の頭をぶつと、そこには大きなたんこぶが。嫁の「あれあれ、ここに、だんごのようなこぶができたわ」という言葉を聞いて、ようやく男はそれが「だんご」だったことに気づいたのでした。(めでたし、めでたし。)
短い話なので、K君に朗読してもらい、あらすじもまとめてもらいました。K君の朗読は、本当に感情のこもった、良い朗読でした。
内容について面白かった点をたずねると、K君はいくつも挙げてくれました。どれもK君らしい、独創的なものでした。たとえば次のようにK君は説明してくれました。
嫁が「だんごのようなこぶ」と言ったところが面白かった。嫁は単に「こぶ」とだけ言ってもよかったし、あるいは「大きなこぶ」とか「丸いこぶ」とか、そんなふうに表現してもよかった。それなのに嫁は「こぶ」をわざわざ「だんごのような」と喩えた。
しかし嫁は何故「だんごのようなこぶ」と言ったのだろうか。じつは嫁の実家のある里は、団子が名物だった。(だから男が里を訪れたときも、母親は団子でもてなしたのだ。)嫁はそういう土地に生まれ育ち、幼い頃から団子に接してきた。だから「こぶ」を喩えるときも、つい「だんごのような」という言葉が、嫁の口を衝いて出たのだ。
(こうしてブログを書かせていただきながらクラスでの議論を整理していくうちに、私自身の頭も整理されてきたようです。議論にはあがらなかったのですが、こうして考えてくると、男と嫁にはある共通点があるようですね。ではどんな共通点があるのでしょうか。来週はこの辺りから、議論を少しだけ蒸し返してみたいと思います。)
こうしたK君の解釈は、私が予想だにしなかったことでした。それで、こうした点を含めて『どっこいしょ』について作文をしてもらいました。それをまた朗読してもらい、文章表現について確認しました。K君は知的好奇心が旺盛で、途中、たとえば「想像」という言葉が出てきたときにも、「この『像』っていう字は『銅像』の『像』でもあるけど、『想像』とどう関係あるのですか? 『想像』と『銅像』ではぜんぜん違うものに思えるけれど……」と質問してくれました。辞書を引きながら、「像」には姿・形という意味があって、「想像」は「像」を頭の中で想うこと、「銅像」は銅で作られた「像」のこと、ということが分かると、「そうかー、なるほど!」と言ってくれました。
最後に、この『どっこいしょ』について、もうひとつの作文のテーマを説明しました。この『どっこいしょ』と関連させながら、また自分の体験をふまえて、「思い違い」ということについて書きましょう、というものです。さっそく書きはじめてくれましたが、すぐに時間が来てしまったので、あとは宿題で、と言って終わろうとすると、「あと5分だけ」と言って頑張ってくれました。
生徒の質問、疑問はじつにユニークですね。また、先生が「予想だにしない」と感心し、驚くそぶりがそうした質問をうまく引き出す大切な条件になっているように感じます。大人の側が急ぐとすべてぶちこわしになりますが、さいわい私たちには心のゆとりはたっぷりありますね。時計の時間はあっというまに過ぎていきますが。