浅野です。
先ほど紹介した3年生の様子を見られていたので、自分たちもそれをしたいとの強い要望を受けました。そんなに言うなら5年生らしい立派なものを作ってみてごらんと言いました。しかし乱雑にかかれており意味のわからないものを手渡され、いくら考えてもわかりませんでした。
わからないと問いただしても、わかるはずだと強く主張されました。それではいけません。相手に読んでもらえるようなことを書く必要があります。
山の学校は小学生から大人を対象とした新しい学びの場です。子どもは大人のように真剣に、大人は子どものように童心に戻って学びの時を過ごします。
浅野です。
先ほど紹介した3年生の様子を見られていたので、自分たちもそれをしたいとの強い要望を受けました。そんなに言うなら5年生らしい立派なものを作ってみてごらんと言いました。しかし乱雑にかかれており意味のわからないものを手渡され、いくら考えてもわかりませんでした。
わからないと問いただしても、わかるはずだと強く主張されました。それではいけません。相手に読んでもらえるようなことを書く必要があります。
>わかるはず
その主張こそ、語調強く口で言うのでなく、文字において
表現すべき、ということですね?それこそ生きた学びです。
もっとも、大学でいっとき横行したアジ文書なども、今回の生徒の
反応と根っこは同じですね。(話がそれました)。
少し、難しいことをかくと、表現とは本来社会性を帯びたものです。
今の時代に欠けているのは、その社会性の意識です。社会性とは
常に他人の立場に立つことです。
文章を書くと、このことを強く経験することになります。自分だけ
わかればよい、という投げやりな態度では、文章はかけません。
今回の取り組みをすると、このあたりが問われます。だから、
リトマス紙にも似て、よい教材であります。
じつは、以前から、先生が生徒との約束の中で展開された春学期の
授業内容とはまさにこのような取り組みでした。一回で終わるわけでなく、
続きものでした。
残念なのは、それをしても試験に出ない事であるわけで、
このあたりの評価の基準を根本から変えないと、楽しんで
学ぶ(遊ぶ)という事が学年が上がるにつれてますます難しくなる、
と思います。
誰もが認めることですが、真に余力のある人間は、
よく遊び、よく学ぶことができます。また、そうでないと、
大学に入っても、「勉強を遊ぶ」(←私の造語)ことができません。
(中学入試も、高校入試も、社会人の資格試験を目指す勉強も、
煎じ詰めると、勉強をいかに工夫して楽しめるかという要素を
抜きには有効な戦略を構築できません)。
で、授業がわからないといって、せっかくの大学生活も面白くなく、
勉強以外のことに気持ちが向かいます。私は、そういう
「勉強だけ」の学生を嫌と言うほど見てきました。「なんとかしてくれ」
と自分の不勉強を教える側の責任であるかのようにみなす学生も
多々いました(今も、多いのでしょう)
それに対し、「勉強も遊びも」できる子どもたちを育てたいと思って
山の学校をはじめたのです。先生が描かれている方針とは、
まさに私も同じ事をしたいと願うものであります。今与えられた
条件を最大限に生かし、先生の思われることをクラスの中で
これからも「表現」していってください。
「わかるはず」という態度を批判する私の記事自体が言葉足らずでわかりにくいものになっていたことをお詫び申し上げます。
補足していただきましたように、「わかるはず」と突っぱねるのではなく、相手がわかるように説明しようとすることが、ことばを学ぶ上で重要となるのだと言いたかったのです。
もちろん、漢字を書くことができる、巧みな表現を用いるといった技術面も大切です。しかし最低限の能力は中学を終えるころにはたいてい身についているものです。また、技術的には非常に上手であっても誠実ではない文章を見かけることもあります。特に学会誌に多いですね。余談ですが。
角度を変えますと、自分から遊びたいと言い出したのだから、真剣に遊びなさいということです。真剣に遊ぶとどんなことでも壁にぶつかります。工作ですと設計図を読み解いたりしないといけないわけですし、暗号文でも相手がしばらく考えたらわかる程度のものを作ろうとするととても頭を使います。
個人的な考えでは、ことばはあくまでも手段であり、それを用いて何をするかが問題なのです。ですから、ことば以前の態度にこだわっているわけです。