高木です。
今日は秋学期の初日。
お山を登って校舎に向かう途中、ずっと猫が先導してくれました。つんざくような蝉の声の心地良さ。久しぶりに木や土の匂いを吸いこんで、春学期の思い出がいくつか去来しました。
M君もT君も日に焼けて、少したくましくなったように見えました。不思議なことですが、ほぼ二ヶ月振りに会ったのに、久しぶりのような気がしませんでした。なぜでしょう?
今日は、夏休みの思い出について、作文を書いてもらいました。M君は白浜へ旅行したことについて、T君はディズニーランドへ行ったことについて、書いてくれました。
書きながら、ときどき顔を上げて、書くよりも先に、楽しかったことを私に話してくれることがあります。そこで質問すると、さらに目を輝かせて、夢中になって話してくれます。すると――書く内容がまとまったのでしょう――自分で気がついて、また書き始める。こうしたプロセスは私もよく経験するところです。
声に出して誰かに説明することで、思考が整理され、文字として書きやすくなる。あとはその対話を自分の頭の中で組み立てれるようになれば、水泳で言えば、確実な息継ぎを覚えたようなものです。体力さえあれば、どこまでも泳げる。
小学校の教室では作文の途中に喋ると周りの迷惑になってしまいますが、このクラスではそこを無理に抑える必要はないと思いました。
山下です。秋学期もよろしくお願いいたします。
>声に出して誰かに説明することで、思考が整理され、文字として書きやすくなる。
これは実感としてありますね。作文も、論文も、アイデアを聞いてくれる他人の存在は大きいです。また、「音」に出すことで自分がそれを耳にするという面もあります。自分のかいた文章が自分の耳が受け付けないことはよくあります。いきなり話がローマ時代に飛びますが、ジュリアスシーザーは名文家として知られますが(「ガリア戦記」など)、シーザーに限らず、当時の著作は、黙って文字を書いてできたというより、書き手が文章を声に出し、それを筆写してもらっていたのですね。お書きになったエントリーを拝読し、作文における「音読」も、読解における「音読」も、いずれも重要な学びのモチーフなのだと思いました。