『ユークリッド幾何』(山びこ通信2010/11より)

『ユークリッド幾何』 (担当:福西亮馬)

『コロンブスの卵』

ある荒野の1本道を、あなたは車に乗って飛ばしていた(ただしこの車はどんなに工夫しても、最大2人乗りしかできない)。ふとさびれたバス停が見え、あなたはヒッチハイクのサインを見て、車を止めた。そこには3人の人影があった。1人はかつてあなたを事故から救ってくれた命の恩人、もう1人はあなたが日ごろから結婚したいと望んでいる理想の女性、そして3人目はもうかなり高齢の老婆だった。あいにくバスは1日1本しか来ず、それも時刻表によれば6時間後とあった(そして実際6時間後にやって来た)。もしあきらめて歩くにしても、最寄の町まで20km以上離れており、ゆうに4時間はかかってしまうだろう。そこであなたは思案した。

さてこのような状況で、実は全員がハッピーになれる方法がある。あなたはそれを思いつけるだろうか。

これは、授業の合間に紹介した、とある映画の中に出てきた、なぞなぞ(推理クイズ)です。答が分かってしまえば何のことはない「コロンブスの卵」なのですが、しかし世の中に出れば往々にして、重要な局面ほどこうした「コロンブスの卵」と言える問題が待ち受けているものではないでしょうか。仮にそうであるなら、その種の問題に時間を費やしたとしても、決して無駄にはならないでしょうし、むしろ新しい価値を生み出すためのトレーニングになっていると私は考えます。

ところで、これは生徒から聞いた話ですが、学校のある数学のテストは、50問を25分で解くそうです。おそらく計算問題がメインの場合だと思いますが、それにしても1問30秒とは驚きです。それに対し、このクラスで、ユークリッド『原論』から取り出して考えている問題は、1問につき10時間のスパンを想定しています。なぜなら古代ギリシア人が来る日も来る日も砂の上に図形を描いていたことと照らし合わせれば、むしろ短いとさえ思われるからです。この時間感覚の差は、一体何を意味するのでしょうか。

そうです。「演繹」と「帰納」との違いです。これについては、数学者の高木貞治の著した『近世数学史談』から、特に日本の若者に向けられたメッセージとして、言葉を借りたいと思います。

ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。…(中略)…数学は演繹的であるというが、それは既成数学の修行にのみ通用するのである。自然科学に於いても一つの学説ができてしまえば、その学説に基いて演繹をする。しかし論理は当たり前なのだから、演繹のみから新しい物は何も出てこないのが当たり前であろう。もしも学問が演繹のみにたよるならば、その学問は小さな輪の上を永遠に周期的に輪転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論に促されないで、帰納の一途に精進すべきではあるまいか。(──高木貞治『近世数学史談』)

文頭にガウスの名前が出てきましたが、ガウスは16歳のある朝に、正17角形の(定規とコンパスによる)作図法を思いついたことで、数学を志すことを決意したと言われています。それがどんなに重要な出来事であったのか、今の我々は想像を逞しくするしかありませんが、おそらくユークリッド『原論』(第4巻命題16)に正15角形(これが『原論』に記された奇数の正多角形としては最大)の作図法が載っていることが関係していると思われます。すなわち若き日のガウスの発見は、ユークリッド幾何を二千年ぶりに拡張させた出来事として、歴史的にも価値のある「帰納」だったのです。そのようなガウスは、「数学の考究においては何よりも妨げられざる、切り刻まれざる時間が必要である」とも述べています。これぞまさしくアルキメデスやユークリッドたちと同じ態度と言えるのではないでしょうか。

さて、今学期の授業で扱っているテーマは「円」です。ユークリッド『原論』では第3巻にあたります。生徒たちの答案をここで紹介するにはあまりに「ページが狭すぎる」ので、上のような一般論を述べさせて頂きましたが、授業では特に以下の二つの問題に手ごたえがありました。

第3巻命題22 円に内接する四角形の向かい合う角の和は180度である。
第3巻命題21 弧を同じくし、円にその頂点が接する二つの角(円周角)は互いに等しい。

これらは実際には中学3年生で取り扱う問題ですが、単に現行のカリキュラムの都合そうなっているだけで、幾何の歴史から見れば、今の我々が3年生だから解けて、1年生だから解けないというのはナンセンスです。逆に3年生になれば、黒板で「答を教えてもらって」それを演繹、確認するだけに終始してしまいます。これでは本当の幾何の楽しみを味わうことができないと危惧し、最初のコロンブスの卵の話に戻ります。

どんなに時間がかかったとしても、「自分で解いた」ことには、何にも代えがたい達成感があります。そのように「帰納して発見することで生まれた自信」が、将来まだ誰も解いていないような問題を解く際に、もしかしたら有力な手がかりとなるやもしれません。(そのことは、最初に挙げた「バス停の問題」の答をもし自力で発見した人ならば、頷かれるものと信じます)。そう思うと、生徒たちが今クラスで、自分の力で押さなければ前に進めない問題に対して、「よし、今日も頑張ろう!」と張り切って向かってくれていることには頼もしさを感じます。

ガウスが用いた印章には、一本の木に二、三個の果実がついており、ラテン語でpauca sed matura.(少ないが熟している)という句が刻まれていたと言います。我々もその精神を見習って、胸を張りたいと考えています。

(福西亮馬)