高木です。
今日から数回にわたって、短いエッセイを読んで、それについて文章を書く、ということに取り組みます。
とりあげるのは、ヨハン・ペーター・ヘーベルの「蛙の雨」です。
「空から蛙が降ってくるのを見たことのある人など、ひとりもないだろう。」それでは、「蛙の雨だって降る、と言う人がある」のは何故だろう。その理由について、この短文では考察されています。
今日は、漢字の読みの確認と、分からない言葉の意味を辞書で調べてもらうことに徹しました。
分からない言葉を辞書で調べると、その言葉の意味が載っているわけですが、しばしばその意味を書いた文章に、また分からない言葉があったりします。今日も、たとえばK君が「合理」を調べると「道理にかなっていること」と載っていたのですが、次はその「道理」が分かりません。「道理」を調べると「物事の正しいすじみち。ことわり」とあり、今度はその「すじみち」や「ことわり」が分かりません。そしてさらに「すじみち」と「ことわり」を調べると……、というように、自分が納得のいくまで、この言葉の探究は続くことになります。
K君の良いところは、途中で投げ出して私に意味を聞こうとするのではなく、むしろこうした探究を楽しんでいるということです。最後に意味をつきとめて、そこから遡及してそれまでの全ての言葉の意味がクリアになったとき、それらの言葉はK君のなかにしっかりと根付きます。
来週は、本文の内容に踏み込み、あらすじと筆写の意見、それにたいするK君の考えなどを、対話のなかで確認してきたいと思います。
>むしろこうした探究を楽しんでいるということです。
大事ですね。ご家庭の教育のたまものだと思いますが、その姿を応援して下さる他人の存在も必要です。ことばのクラスの意義というものをそこに感じます。こういう探求心を応援しようとすると、どうしても時間と心の「ゆとり」が必要になりますね。