高木です。
今日、秋学期に入ってから取り組んでいる「夏休みの思い出」の作文の、全文の再確認が終わりました。
K君の良いところは、表現力もさることながら、表現の意欲・意識が高いことです。一つの文章を完成させても、それで落ち着いて考えることをやめてしまうのではなく、もっと良い表現はないか、なにか付け加えることはないか、と常に自己確認を怠りません。
私が一つの箇所で指摘したことは、その場だけをしのぐのではなく、必ず全文にまで反映させます。ときには、私が問題ないと思っている箇所でも、K君自身が「うーん」と言って立ち止まり、「本当はもっとこんなふうに言いたいんだけれど、どう書けばいい?」と逆に訊いてくれます。
たとえばセミの羽化を見たことを書いた部分なら、羽化の様子をもっと精密に描写したい、とか、あるいは長崎のキリシタン館に行ったことを書いた部分なら、そこで見聞きした天草四郎のことやキリスト教の弾圧のことについてもっと突っ込んで書きたい、というふうに。
もちろん、そうした書きたいことを、今度はどのように制御・整理していくか、ということもまた大切な表現能力の一つです。しかし、まずはともかくも、表現したいこと表現する、ということが大前提になります。そのまま表現する、というのは、当たり前に見えて一番難しいことです。でもK君は「生みの苦しみ」を知らないかのようです。
最初に書いた文章は、こうして、赤色で埋めつくされ、ある部分はもはや原形をとどめません。
山下です。
>最初に書いた文章は、こうして、赤色で埋めつくされ
K君らしいエピソードですね。どのお子さんにもこのような経験を味わう潜在能力が宿っています。ただ、周囲が「せかす」ので、本人は「作文」と聞くと嫌気がさすのが一般です。今、別段ポジティブな表現をしないと見受けられるお子さんにも、等しく豊かな表現の力と機会はあるものです。
あるいは、せかすこともあきらめ、画一的な問題演習に注意のほこさきを向けてしまいます。これでは、K君が体験している「表現の難しさ」とそれを乗り越える「楽しさ」をじっくりと味わう機会は奪われたままです。
子どもの表現力は才能のあるなしで測れません。大人は子どもの表現の発露をじっくり待つ必要があります。
植物の「種」には、みな等しく「発芽」と「成長」と「開花」の機会が与えられていますが、わたしたちは、どの植木鉢も「同じ日に」芽を出さないといけないかのように接しています。でないと落ち着かないのです。ことばの学びにおいて一番大切な要素、それは、「信じて待つ」ことだと私は思います。ただ、それだけです。しかし、それが何より難しい時代です。