高木です。
今日朗読した詩は、ちょっと長いので、「続きを読む>>」をご覧下さい。
与田準一(よだじゅんいち)
お家(うち)を出れば空がある。
きっとお頭(つむ)の上にある。
屋根の上にも空がある。
いつも見あかぬ空がある。
アンテナのさき、空がある。
いつも澄んでる空がある。
電柱の上、空がある。
とてものぼれぬとこにある。
椎(しい)の林に空がある。
ハンカチのよな空がある。
椎のかげにも空がある。
冷えた泉の底にある。
街の方へも空がある。
あおく流れた空がある。
家のすきまに空がある。
切れた四角の空がある。
雲の上にも空がある。
雲によごれぬ空がある。
空の上にも空がある。
神さまの国、空がある。
遠いところに空がある。
高いところに空がある。
一度行きたい空がある。
ああ、どこにでも空がある。
空は一つのはずなのに、いろんな場所に、いろんな自分の空があるものですね。
長く朗読した後、空があるのは当然のことだというもっともな意見が聞けたので、詩の意味をゆっくり確認していくことにしました。
空があるのは当然のことです。「どこにでも空がある」のです。でもいつもの空を、もう一度よく眺めてみれば、おなじ空は一つとしてないことに気づきます。当たり前だと思っていたことは、こちらの見方次第で、さまざまに違った姿を見せはじめます。そして、眺めている自分も、時々刻々と変化しているのです。「いつも」の空は、しかし「見あかぬ」空です。
意味を確認しながら印象に残ったのは、「あおく流れた空」とはどんな空か、と私が訊ねたときに、M君が答えてくれた次の言葉です。「雲が流れているのを見ていると、空の青色も流れているように見える。」
>「雲が流れているのを見ていると、空の青色も流れているように見える。」
印象深い言葉ですね。
空を見上げること。秋はとくに空を見ていて見飽きないです。大昔の人も、こういう空、こういう雲を見ていたのだ、としみじみ感じることがあります。