浅野です。遅くなりましたが、2回前の授業の報告です。
前回は冬学期の予定を決めました。先週は書きませんでしたが、時間が少しだけ余ったときのためにみんなに漢字ドリルを渡していました。漢字ドリルに対する好き嫌い、得意不得意は人によって違うため、宿題として範囲を指定することはせず、自分のペースで進めるということにしました。そうしたら早速してきたところを自慢げに見せてくれた人がいました。うれしいことです。
今回は予定通り推理クイズをしました。お題は「二人は、同じ時間に、同じ場所で、同じお母さんから生まれたのに、双子ではありません。それはなぜでしょう?」というものです。
このお題に対して出された質問は次の通りです。
「生まれた場所はどこですか?」――「病院でしょうか。場所は関係ありません。」
「お母さんのおなかから生まれましたか?」――「そうです。」
「『双子』という言い方に関係ありますか?もっと難しい言い方をするとか?」――「いいえ。『双子』のことを難しい言葉では『双生児』と言いますが、二人は『双生児』でもありません。」
こうしたやり取りをした後で、相談タイムになりました。そこで一人がこちらの用意した答えにたどり着いたのですが、他の人に反駁されてしまいました。このまま放っておくともうその答えには戻ってこないだろうと思って、つい助け舟を出してしまいました。
残り時間には、生徒たちのほうから出題をしてくれました。他のクラスで出されたものでしょう。うまく出題できていることもあれば、題意が伝わらないこともありました。自分で出題をするのもいい経験になるでしょう。しかし、適切に出題し、質問に答え、場合によっては他の答えでもよしとするのは大人にとっても相当難しいことです。生き生きと出題してくれるのはうれしいのですが、他のクラスの問題とかぶらないようにしないといけませんね。
>そうしたら早速してきたところを自慢げに見せてくれた人がいました。うれしいことです。
強制せずに自主的に取り組むことはすばらしいですね。小学校の低学年から中学年にかけて、私が難しいと感じるのは、この「自主性」をどこまで尊重するかということです。いいかえると、生徒の自主性と見える要素はたぶんに未熟であり、本当は自主的に取り組む力があるのに、照れやためらいなどから、その気持ちを引っ込める人もいて、つまりは、先生の側でそっと背中を押すことがポイントになってくるということです。
浅野先生はその点をたいへん人間的にとりくんでくださっていて、一言で言えば「待つ」スタイルだと思うのですが、私は逆に1年から3年の子供たちには「機械的に」接しておりました。つまり、ドリルは必ずするもので、ノーということは許されませんでした(笑)。私の工夫は、このドリルに相当する学習のノルマをきわめて敷居の低いもの、量的にもほんのわずかなものにとどめることでした。ノルマを超えてやってきた生徒は個別にほめたりもしていました。逆に言うと、やってこない生徒、やらない習慣というのをなしにするため、簡単なことを少しずつ長くつづけるという機械的ルールをクラスにもちこんでいたわけです。
推理クイズのやりとりは、すばらしいです。いわゆる「質問する力」を養うという点が、「論理的に考える」という要素より、私は重要だと思います。生徒は自分たちでも問題を出したがりますし、それはそれでよいのですが、やはり、やりとりの流れを的確に方向付けるための司会役は、先生とおいてほかにいません。先生だからこそ「助け船」も出せますし、学校のテストと違いますから、それはそれで大事なことだと思います。
生徒が先生を中心として輪になり活発に言葉のやりとりをする・・・というスタイルこそ、将来にわたって意義深い学びの機会を提供するものと確信しています。どうぞ、今のペースでよろしくお願いします。