高木です。
今週から数回にわたって、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読みながら、作文に取り組んでいきます。
今日はその第一章、「午后の授業」です。「ではみなさんは、そういうふうに川だといわれたり、乳の流れたあとだといわれたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」という、「先生」のあの有名な問いかけからはじまる章です。
読みながらK君と私は、「先生」の授業を一緒にうけました。K君は「天の川」は見たことがあるけれど、それが、円盤形の銀河の、内側から見た断面だと知って、「あ! そうなんですか!」と驚いていました。
私が簡単にビッグバン仮説について話すと、K君は、「宇宙の外側はずーっと真っ白」で、そこでは「人がコーヒーを飲んでいる」という自分のイメージを語ってくれました。コーヒーカップにコーヒーを注ぐときの、その一雫が、僕たちの宇宙なのだそうです。その宇宙には自分が住んでいるわけですが、その自分を作っている一粒の中にも、さらに宇宙があって、そのなかにはまた自分がいる、「それがずーっと続くんです」とK君は話してくれました。
面白く聴きながら、宇宙について思いをめぐらす、その想像力に感心しました。「宇宙がずっとひろがっているんだったら、さいごはゴムみたいにパチンとちぎれて、二つの宇宙になるかもしれませんね」とも(!)
さて、「午后の授業」には、銀河についてと、もう一つ、重要な読みどころがあります。ジョバンニとカムパネルラの精神的なやりとりについてです。クラスの残りの時間では、そのことを確認しました。
冒頭の「先生」の問いは、ジョバンニに、銀河の本を一緒に見たカムパネルラとの大切な思い出を喚び起こさせます。でもジョバンニは、小学校の始まる前と終わった後の仕事の疲れで、その問いにうまく答えられません。すると、その問いに答えられないはずのないカムパネルラまでが、ジョバンニのその様子を見て、彼を気遣って、答えることをやめます。ジョバンニは、最近なんとなく言葉を交わせないでいるカムパネルラのそうした繊細な気持ちを感じとり、あわれに思って涙をうかべます。
感情の機微に触れるとは、まさにこういうことをいうのでしょう。ジョバンニの涙のわけ、これが、K君に考えて作文してきてもらうために私が問いかけたことです。
>『銀河鉄道の夜』
私はこの本が苦手でした。何が書いてあるかさっぱりわからず、今もこの本の表紙の絵を思い出しながら、苦い思い出が蘇ります。たしか小学校では推薦図書だった気がしますが、「読まねばならない」と思いながら読んでも「どこがおもしろいのだろう?」という期待はずれの気持ちが雪だるまのようにふくらんでいくばかりでした。・・・・というネガティブな思い出を一掃するだけの取り組みが今、このクラスでは展開中です。私もタイムスリップして高木先生のクラスにいたら、そして旧友にK君がいたら、多少のコンプレックスは感じつつも(笑)、「なにかおもしろそう」という希望は持ち得たと思いますので。この作品の喚起する多様な宇宙のイメージに比べれば、キケローの「スキーピオーの夢」はじつに散文的であり、これほど「わかりやすい」ものはないと感じます。