高木です。
先週まで読んでいた野尻抱影の『赤い手鏡』を踏まえて、K君が書いてきてくれた感動の経験は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ラロックの聖母」という絵画作品を観たときのことについてでした。
作文の前半では、「ラロックの聖母」のモティーフや、その作品が発見される過程について、詳しく語ってくれていました。その作品は、ずっとダ・ヴィンチのものだとは知られずに、ラロック村の村長の古いリサイクル・ショップに置きっぱなしになって埋もれていたのだそうです。
K君は「ラロックの聖母」をテレビで観たのですが、それでもその作品は「あっとうてきな存在感」をもっていたと、作文の後半に書いてくれています。聖母マリアの服のしわは、ひとつひとつよく描きこまれていて、まるで「本物みたい」であり、またキリストとヨハネは「神なのか人なのかわからない顔」をしていました。
K君はかつて「モナ・リザ」を観たことがあるらしいのですが、そのときはそれほどの感動はなかったそうです。でもこの「ラロックの聖母」にはどこか心を打たれたそうです。作文の文章表現を確認しながら、ときおりその感動について熱っぽく語ってくれるK君は、その都度いま語ったことを作文に書き足してくれます。自分の文章を磨きあげるその姿は、まるで作品を彫琢する芸術家のようでした。
K君には、推敲という言葉が似合います。きっと「書き足した」(つまり覚え書きとしてのメモ)部分を全体の中によりよい形で融和させたいという気持ちも残っていると思います。おそらく、チャンスがあれば、もう一度最初から全体を書き直すのではないかと思います。何度も書き直し、その都度文章が磨き上げられていくことを彼はいやがるどころか、進んで実行する人ですね。
K君すごいですね。記事中の引用箇所に、自然とK君の声が重なりました。
全文をぜひ読みたいです。
K君にも感動ですし、それを書き伝える高木先生にも感動です。
感動は連鎖するものですね。