高木です。
今日はまず、ジョバンニの六つの考えごとのそれぞれをより詳しく書いてきてもらった文章を確認しました。最初の文章より内容が格段に充実していました。そして、表現上の留意点を若干指摘したあとは、先週の約束どおり、持参した字書で、懸案になっていた「賢」の成り立ちについてK君自身に調べてもらいました。
私がいつも参考にしている白川静の字書をお渡しすると、その文章の難しさにも関わらず、K君はそれを読みあげて、ホワイトボードに成り立ちの図を描きながら、「賢」の本質を熱心に学んでくれていました。
学んでいろいろと対話したことをまとめると、次のようになります。
「臣」とは横から見た眼の形で、古い中国では神に仕えるしもべをのことを「臣」と呼んだ(家臣とは家来のこと、大臣とは公僕のことです)。そうした「臣」は、自らの手で瞳を傷つけて盲目となったが、だからこそ異能を得ると信じられた。「臣」に「又(手の形)」を加えた「臤」とは、そうした優れた能力を持つ者のことをいう。「臤」が「賢」の元の字であったが、後に貨幣として用いられた「貝」を加え、そこに「貴重なもの」という意味が付与された(K君は「貴」の字にも「貝」が使われていることを発見しました)。優れた能力を持つ貴重な存在、それが「賢」である。
そして、一文字の漢字を本質から自力で学んだK君もまた、そのような存在であると思い、そう伝えました。
この「賢」のあとも、先週同様にまるで木のように対話は生長し、ホワイトボードはかくも狭いものなのかと、今日も痛感させられることになりました。
一区切りがついたところで、『銀河鉄道の夜』を読みすすめました。
今日は「五、天気輪の柱」と「六、銀河ステーション」です。ここらかようやく銀河鉄道が走り出し、『銀河鉄道の夜』といえば誰もが想像するような幻想銀河が展開していきます。これまで追ってきたジョバンニとカムパネルラの複雑な関係と心情は、いったんは忘れられたようになって(しかし読者であるK君は覚えています)、かつてのカムパネルラとの純粋で幸福な時間へとジョバンニはかえって行きます。銀河鉄道が走り出す前までのくだりを丁寧に読み込んできたK君は、読み進めるにしたがって、ジョバンニのある重大な忘れ物に気づいていくことになると思います。
しかしこれはまだ先の話。いまは鋼青の銀河の煌めきのなかをジョバンニと一緒に旅します。
今日は、本文を時間をかけて読んでもらった後、家で書いてきてもらう作文の形式についてお話して、クラスを終えました。K君の文章は、また来週ここでお伝えしたいと思います。
福西です。高木先生、こんにちは。
>そうした「臣」は、自らの手で瞳を傷つけて盲目となったが、だからこそ異能を得ると信じられた。「臣」に「又(手の形)」を加えた「臤」とは、そうした優れた能力を持つ者のことをいう。
これは目から鱗でした。賢に、「目を傷つける手」という映像が髣髴としました。ちょっと大げさかもしれませんが、上の字書の説明は、いつかふとした折に、Ke君が人生のどこかでぶつかった時の支えとなるかもしれない、とまで思いました。
#それに、「臤」という字を(ディスプレイ上に)出すところも、高木先生は「すごい」です。それだけKe君のことを大事に思って下さっているのですね。
偶然かもしれませんが、神話では予言者はえてして盲目であることが多いですね。北欧神話の神オーディンも、「全知」を得る代償に自分の片目を泉に投げ入れていますし。悲劇的な賢者の例だと、オイディプス王が、自信満々で真実と思って見ていたことがそうでなかったことに絶望して目をつぶしてしまうわけですが…。それよりもずっと漢字の成り立ちの方は古いはずなので、そんな頃に「異能を得る姿」から「臤」という漢字が作られていた、中国に蓄えられた人生の知恵は、すごいなあと改めて思います。
そこで、興味があってまた調べていたら、「自分を愚者と知る者は賢者で、賢者だと思い誤る者は愚者」という意味合いの言葉を見つけました。なるほどお、と思いました。目を覆うことは、己を虚しくして、より物事を見やすくすることでもありますね。そういった意味でも、Ke君はまことに謙虚で、まさしく名は体をあらわした「貴貨」だと思います。君子と言えるかもしれません。人を助けることが好きな彼のことだから、三国志を読みふけって、数ある名臣たちに胸を熱くするのも不思議はないかもしれません。
#Ke君と言えば幼稚園時代に、アスレチックのはしごを(自分はそのはしごの上を渡って遊ばずに)自分が下に入って支えてくれていたり、そのような先生のサポートをしてくれている姿をよく思い出します(その写真も残っています^^)。
『銀河鉄道の夜』の展開も楽しみです。作文ができたら、またぜひ見せて欲しいです。
今日も亮馬先生と話していたのですが、数学も一つの問題にじっくり取り組むことが何より大切で、すぐに答えを求めたり、解説を求めることなく、あくまで自力で解こうとする「根性」をもってもらいたい、と私は常々思っています。一方、前にも何度か指摘したのですが、このクラスでは生徒が自ら進んで自分の原稿を「推敲」します。この態度はまことにあっぱれです。また、その姿勢をじっくり応援してくださる先生の姿勢もお見事です。ちなみに、山の学校HPのクラス紹介を先ほどみていたのですが、亮馬先生は、ご自分の小学校時代の数学への情熱について、じつに印象的なエピソードを披露してくださっています。ご参考まで。http://www.kitashirakawa.jp/kazu1.html 私の目には、K君と亮馬先生の姿が重なって見えます。
こんにちは、初めまして。
ちょっと気になったので、不躾ながら質問します。
変換出来ないのと、読みが分からないのですが
「臣又」この漢字は何と読むのですか?
そもそも漢字としてあり得るのでしょうか?
一体どうして変換するのですか?
通人さん、はじめまして。高木です。
コメントをありがとうございます。
>変換出来ないのと、読みが分からないのですが
>「臣又」この漢字は何と読むのですか?
>そもそも漢字としてあり得るのでしょうか?
>一体どうして変換するのですか?
読みが分からないとのこと、うっかり書き忘れていました。申し訳ありません。
「臤」は、音読みで「カン、ケン、コウ、キョウ、ゲン」、訓読みで「かた(い)」と読みます。
(参考:『大漢和辞典』、大修館書店)
古く甲骨文字では、「かしこい」という意味で用いられたようです。
現在は、この「かしこい」という意味は、「貝」を加えた「賢」という字に移っています。
(参考:白川静『常用字解』、平凡社)
変換方法についてですが、たしかに通常のひらがな入力では「臤」に変換できないので、
私は、デスクトップ画面右上、ことえりの入力メニュー内の「文字パレットを表示」を選択し、
文字パレットの「部首別」検索の「6画」の「臣」に進み、その2画目にある「臤」を選択し、
「入力」しました。(ちなみに私はMacBook(Ver.10.5.8)を使用しています。)
お答えになっていますでしょうか。
詳しい回答ありがとうございます。
漢字として成り立っている字なんですね、ちょっと驚きました。
国語辞典や変換でも見たことがありませんでしたから。
少し賢くなった気がしました。