高木です。
睫(まつげ)
加藤 まさお
思い出す、思い出す / 長い睫を思い出す。
灯影(ほかげ)もくらいスタンドの / 青い光にぬれながら、
同じ手紙を読み返し / いつも泣いてたお嬢さん。
昨日まで、ひとつ机に夜昼を / ともに暮らしたお嬢さん。
仰げば、窓に月がさし、 / 暗いお部屋の懐かしや。
静かな庭に夜が更けて、 / アスパラガスの細い葉に
露が宿れば思い出す。
なつかしい、なつかしい / 長い睫を思い出す。
朗読の後、「アスパラガスの細い葉で、なんで思い出すの?」と、すぐに疑問を出してくれましたが、意味を一緒に考えていくと、「そうか、まつげのたとえか」と気づいてくれました。自発的な疑問が動機となって、詩の意味を考えていくことは、大切なことだと思います。T君は、「『昨日』別れたところやのに『なつかしい』って、なんか不思議や」とも。
また、お嬢さんはどんな手紙を読んでいたのか、何故泣いていたのか、という疑問については、M君は「お母さんが亡くなりはって、それで実家に帰ったのかも」とか、あるいは「お嬢さんは結婚しはるのかも」と、想像力をはたらかせてくれていました。答えはひとつに絞れません。無数の可能性を読めることも、詩の醍醐味です。
たとえば「開」は、「閂(かんぬき)」と廾(キョウ)とを組み合せた形で、閂の横木(一)を両手(廾)で外そうとしている形です。
それでは、「閉」や「閑」の成り立ちはどうなるか、ということを、前回と同じ要領で「チャレンジ問題」として、考えてもらいました。
「閉」の「才」については、片手で閂を掛けようとしている形(M君)、「閂」より複雑なカギの形(T君)など、するどい解釈が出ました。漢字の取り組みの主眼は、成り立ちの知識を増やすことだけにあるのではなく、成り立ちに触れながら、個々の漢字の奥行きを味わい、漢字に対する興味を発展的に高めることにあります。「閉」の中の「才」について、一応、正統的な解釈を示しておけば、邪気を祓って門の内外を分けるために立てた目印の木のことなのだそうですが、彼らの解釈もこれに劣らず魅力的だと、私は思いました。
今日も、残りの時間で「ひみつ道具」づくりです。
この取り組みに限ったことではありませんし、今日に限ったことでもありませんが、次々と湧き出てくる彼らの発想には、本当に驚かされます。
今日は、M君は「四次元空間トンネル」「拳銃セット(ヘルメット付き)」「力ベルト」、T君は「なんでも買い取り機」「神様セット、魔女セット」をそれぞれ作ってくれました。
これは以前にもどこかで書きましたが、彼らが何かを表現するときには、文字よりも声が先行する場合が多いです。
最初は、道具について思いついたことを実に活き活きと私に話してくれているのですが、いざ文字で書くときになって、「あれ、なんやったっけ? あー、思い出されへん。 …まあ、いいや」となってしまうことがあります。
なんだかもったいないような気がするのです。
対話は発想の最良の手段の一つですが、対話で得たものをこまめに文字に移し替える作業も大事だと思いました。そのつど注意を喚起していこうと思います。
>対話は発想の最良の手段の一つですが、対話で得たものをこまめに文字に移し替える作業も大事だと思いました。そのつど注意を喚起していこうと思います。
たしかに。私たちも、日頃の授業を振り返り、数多くのエピソードを経験し、そこからいくつもの貴重なインスピレーションを得ながら、こうして「書く」ことを怠れば、すべて空中かどこか遠いところに消えてなくなるのでしょう。逆に、先生のように、毎回こうしてきめ細かく、じつに丁寧にひとつひとつの出来事をもれなく記録していただくことで、今も、そして遠い未来も、のべにして実に多くの人たちが、貴重な示唆を受け続けることになるのでしょう。
私は去年の今頃、人間の生死について思いをはせ、「人は生きて言葉になる」と実感しました(「生きて」とは「生きた結果」ということでもあり、「死んで」と言い換えてもよいです。亡くなった人のことを思い出すとき、その人のかけてくれた言葉であったり、紙に書いて残した言葉であったり、ということです)。
言葉はかくも大切なものだと今も変わらず思い続けております。
本当に、毎回のアップはたいへんだと思いますが、本の出版に勝るとも劣らない、立派な活動を続けておられることに感謝申し上げます。