高木です。
お家で清書してきてもらった自己紹介文を提出した後、今日は、詩を読んで感想文を書いてもらうことにしました。
まず予行演習として、谷川俊太郎の「生きる」という詩を一人ずつ朗読し、少し解説をしたあと、口頭で感想を言い合ってもらいました。
詩の本文は次の通り。
谷川俊太郎
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いま いまが過ぎてゆくこと
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりは はうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
U君とT君の朗読は、それぞれ良いものでした。U君は抑揚をつけて、T君は堂々と、朗読をしてくれました。
その後、この詩を読んでみて、どう思ったかと、コメントを求めました。
すると、T君は、生きるということは、いろいろなことを感じることなのだと、この詩を解釈してくれました。
またU君は、この詩は生きることの素晴らしさをうたっているのだと、読んでくれました。
次は、この詩を段落で分けて、そこでなにが言われているかを考えました。
生きているということは、現実に日々を営むということ。
生きているということは、美を体験するということ。
生きているということは、感情をぶつけるということ。
生きているということは、遠くの何かに思いを馳せるということ。
生きているということは、生まれもった原理に誠実になること。
この最後の五段落目のところが難しく、また特に大切なところです。
鳥ははばたく、海はとどろく、かたつむりは はう…、T君はそれを「個性」だと言ってくれました。
またそこには必ず「動き」がともなっていることを、U君は発見してくれました。
それは、自分が生まれる前から既にそこにあって、生きることを本質的に支えているものです。
人を愛することは、究極的には「○○のため」とは言えない、それ自体に価値があるものです。
T君は、「あなたの手のぬくみ/いのちということ」という最後の二行だけが、二行で一文になっていることを見つけてくれました。それで、最後になにかストンと落ち着くような感覚があるのだと思います。またU君は、朗読の途中ですでに、「生きているということ/いま生きているということ」の二行が各段落で繰り返されていることを発見して印をつけてくれていて、また話してくれました。リフレインは、他にも「それは」や「いま」や「ということ」といった単語レベルでも見いだすことができます。これもまた、詩に独特の、心地よさを生むものです。詩の良さは、やはり声に出したとき初めてわかる場合が多いのだということを、みんなで改めて確認しました。
☆
さて、実は、ここまでの取り組みは、少し長めの、でも大切な、「予行演習」でした。
今日の「本番」は、谷川俊太郎の「朝のリレー」という詩を朗読して、以上のような取り組みを参考にしながら、自分なりに考えた詩の意味や感じたことを文章にしてもらうというものです。
(どうしてこんな風に二段構えにしたのかというと、とつぜん詩の感想文を書けと言われても勝手が分からないだろうと思ういっぽう、今回はそれぞれの初見の感想を大切にしたいと考えたからです。均されていないそれぞれの文章をつきあわせてみるのは、双方にとって刺激になるはずです。)
朗読した本文は以下の通り。
朝のリレー
谷川俊太郎
カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚(めざまし)時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
私の方からの説明は、「経度」についてのみにとどめました。
感想文を書いてきてくれる次回が楽しみです。
なるほど、二段構えでいくわけですね。細部までよく工夫された授業展開でした。今はどうか知りませんが、私が受けた学校の授業だと一つ目の詩だけで何コマも授業が費やされ、全部先生が解釈を説明しながらそれを黒板に書き、私たちがそれをノートに写すというものでした。私にとって、それは苦痛意外の何ものでもなく、ノートをとらないでいたら、先生に見つかってしかられたというおまけまでついています。その点、T君、U君がうらやましいです。山の学校を始めるにあたり、私はありきたりな教育に対するアンチテーゼを掲げたいという強い気持ちを持っていましたが、自分一人では何もできませんでした。こうして高木先生を始め、他の若い先生方が「自分の信じるところ」に従い、真剣に教えて下さるお姿を拝見するにつれ、ありがたい気持ちがわきあがります。ブログのエントリーを見ればわかるとおり、それぞれの先生がみんなまるで違うやり方で教えています。それこそ「みんなちがってみんないい」というわけですね。