『ラテン語中級講読』──山びこ通信より(2008.11)

 『ラテン語中級講読』 (担当:広川直幸)

 暗唱のすすめ

古典は覚えるべきものである、と最近つくづく思う。考えてみれば、ギリシア・ローマの古典は暗唱を前提としているものが多い。叙事詩や悲劇・喜劇は覚えていなければ演じることができない。散文でも、弁論は暗記が前提である。古代では音読され暗唱されたものを、現代的な感覚で黙読し訳し読み飛ばして本当に理解できるのであろうかと疑問に思う。日本にも以前は素読の伝統があった。素読とは記憶力がまだ衰えていない子供に、何度も何度も古典を音読させ、意味の理解を求めずに覚えさせることである。意味の理解は後からついてくると考える。素読は最近見直されつつあるが、意味の理解を求めないという点で、やはり子供向けの方法である。素読に耐えられる大人はなかなかいないであろう。各自が自分の知識や経験に基づいて理解した文章を暗唱し、さらに理解を深めるというやり方のほうが、大人には向いている。

そのような訳もあり、この授業で読んでいるウェルギリウスの『農耕詩』を、今学期から読み進んだ分だけ暗唱することにした。受講生の方に無理強いするわけにも行かないので、自分を実験台にしたのである。初めのうちは山の学校の帰り道、その日の授業で読んだところを歩きながら思い出し、部屋に着いてから思い出せなかったところを確認して覚えていたのだが、最近はだんだん面白くなってきたので、授業の前に覚えてしまうようになった。面白くなるのも当然である。覚えた分だけ確実に進歩するのであるから。今読んでいる『農耕詩』第二歌は果樹についての歌である。当然のことながらさまざまな果樹の名称が出てくる。だが、暗唱をするとそれらの名称を根こそぎ覚えることができる。これだけでも相当な充実感が生まれる。するとまた覚えようという気持ちになる。好循環である。

古典を覚えるということには相当の充実感が伴う。この充実感こそ暗唱を自分以外の人にもすすめる最大の根拠である。また、覚えるものは古典でなくても良いとも思う。自分の好きな作品を覚えればよいのである。覚えてしまえば重量ゼロである。最先端技術を駆使して作られた薄型ノートパソコンもこれにはかなわない。これはとても愉快なことではなかろうか。

(広川直幸)