「ラテン語初級講読A」──山びこ通信より(2009.11)

『ラテン語初級講読A』 (担当:山下大吾)

「ラテン語って、本当に動詞にワタシの変化があるんですね」-このような感想を、ある日の授業後受講生の方がふと漏らされました。前学期途中まで読み進めた『国家について』の抜粋から、初めてキケローの書簡に取り組んだ授業後のことです。今学期のラテン語初級講読Aでは、『アッティクス宛書簡集』を中心に、キケローが主に友人達に宛てて記した書簡を読み進めています。書簡の長さはそれぞれ異なりますが、現在までに二通読み終えました。キケローの記したラテン語を文字通り一語一語、文法を確認しながら訳読しています。複数の注釈書を参照し、必要に応じて和訳と英訳の助けも借りながらの訳読です。書簡集用に編纂された語彙集をお渡しして、少しでも受講生の方の負担が軽くなるよう努力しています。

書簡というジャンルの特徴として、キケローの記した他の作品、弁論や哲学的著作と比べ、修辞的に凝った表現、美辞麗句の少ないことが挙げられるでしょう。ここで目にすることになるキケローは、いわば肩の力の抜けた、普段着のキケローです。一例として、哲学的著作の一つに数えられる『老年について』はアッティクスに献ずる形で書かれたものですが、その献辞では「あなたの克己心と平常心はかねてよりよく存じていますし、あなたがアテーナイから「アッティクス」という綽名のみならず、教養と思慮をも持ち帰ったことも、了解していますから」などと、いかにも献辞らしく改まった、名前の由来を基にした巧みな表現ではあるもののやはりやや硬い言い方が見られます。一方書簡ではその同じアッティクスに対して、「僕が思うに、君達ギリシア人はこう言っているね」と多分に茶目っ気のある、からかいの表現で単刀直入に呼びかけているのです。政争渦巻くローマを避け、アテーナイで優雅に暮らす親友に対する、ある種の羨望をも認めることができるでしょうか。また手紙が来ないことにお互い不満を漏らし、それに対して弁解する一方悪いのは寧ろ君の方だと責め返すところなど、今の世と変わらぬ姿を見出して思わず頬が緩みます。

冒頭の感想はそのような私人キケローの言葉を読まれた後伺ったものです。『国家について』では歴代のローマの王について述べられた箇所を読み進めたため、一人称の出番はありません。これまではチェーホフ『三人姉妹』のマーシャよろしく、機械的に活用形を繰り返す際最初に出てくるものとしてしか馴染まれていなかった、何とも不可思議な、暗誦する当の本人はどこかに置き去りにされてしまった血の通わぬegoの活用形が、生きたキケローの言葉として、受講生の方の目の前に現れたのです。帰宅後書簡を読み直してみると、親友を失い悲嘆にくれつつも、その悲しみをアッティクスと共有し乗り越えようとするキケローの声が、二千年という時を超え、キケローその人の声として、改めて強く響いてくるように思えました。

(山下大吾)