『ラテン語中級講読』 (担当:広川直幸)
この授業では、引き続きウェルギリウスの『農耕詩』を読んでいます。第二歌の中程まで進みました。今までは訳読中心の授業をしてきましたが、受講者の希望に応えて、その方法をやめることにしました。これからは、訳読は理解のための補助とみなし、原典の理解を、とりわけその音の鑑賞を中心にすえて授業を進めていきます。
ここで質問です。古代ローマ人は日本語を知っていたでしょうか。答えは当然否です。では、ラテン語を理解するために日本語は必要でしょうか。これも必然的に否です。つまり、本来ラテン語と日本語は全く無関係なのです。しかし、大学などでは、あたかも日本語にできなければラテン語を理解できないかのような教育が行われています。そして、本来無関係であるラテン語と日本語を複雑につなげあう本質的ではない回路作りに四苦八苦しています。その結果、語学は喜びではなく苦しみになってしまうのです。これは不幸です。言語を習得するということは新しい世界を手に入れるということです。本当は楽しいことのはずなのです。
諸悪の根源は文法訳読方式です。文法訳読方式とはテキストを読ませて訳させるという誰もが経験したことがある例の教授法のことを言います。この教授法はもともと異なる言語で書かれた異なる文化を自分の文化に取り入れるためのものです。言語習得に向いている方法ではありません。また、対象言語をきちんと習得している人でなくても、この方法ならごまかしながら教えることができてしまいます。それで、なかなか無くならないのです。
では、文法訳読方式が言語習得にとって完全な悪かというと、そうとも言えません。日本人が外国語を身につけるときにすでに身につけている日本語を利用して悪いということはありません。ただ、日本語に訳すことが目的であると勘違いしてはいけないということです。皆さん覚えがありませんか、訳は覚えているけれども原文が思い出せないという経験に。
このような試みが、ほとんど訳読と同義である講読の授業でどこまで成功するか分かりませんが、できる限りのことをしてみるつもりです。
(広川直幸)