『ラテン語初級講読B』 (担当:山下大吾)
今学期の当クラスは前学期に引き続いてキケローの哲学的対話篇『老年について』を読み進めております。受講生は継続受講下さるCさんお一方、昼下がりの離れの間で、キケローの記したラテン語を根気強く、一語一語噛みしめながらの授業を行っております。
教材として用いている版は、『西洋哲学史要』と同じく一世紀以上前に刊行されたもののリプリントですが、テクストには付録の註釈に加え、問題となる文法事項に関して、主要な文法書の参照箇所が脚註で事細かに指示されています。初級者対象とは言え、いやだからこそ一切手を抜かない、古典学の教育の面での厚みを感じさせる頼もしく心強い脚註です。その頼もしさに頼りつつ最近の註釈にも目を配りながら、邦訳なども参照して読み進めております。残念ながら語彙集が欠けておりましたので、他の版のものをコピーして使用しています。
Qui omnia bona a se ipsi petunt「自分で自分の中から善きものを残らず探し出す人」―理想的人物像を簡潔に言い表した、大カトーがそのような人物は老年にこそ求められるべきものと述べる4節のこの言葉は、当時のストア派が理想としたαὐτάρκεια「自主自立」の思想はもちろんのこと、プラトーンなどにもその淵源が求められるものでありましょう。同時にここには、絶対的存在者―「神」―に善きもの、あるいは「救い」を求めることのない、健全なhumanitasの精神をも認めることができるでしょうか。
「哲学(philosophia)というものは、それに従って生きるならば一生を煩いなしに過ごせますので、どれだけ賞賛しても十分ということはありません」―明日の命も危うい状況の中、キケローはこの対話篇の序にこのような言葉を記しています。それを読む我々には、そのラテン語の意味を正確に把握し、歴史的思想的背景を含め全体的な理解を可能にするため、できるだけ冷静な頭脳が要求されることは言うまでもありません。特に「研究」という段階になると、とかく客観的な思考が大事だと金科玉条のように叫ばれるものです。
しかしながら我々が取り組んでいるのは、philosophiaあるいはphilologiaという「学問」です。それを支えているものは、文字通り主体的な、自身の胸底から湧き上がり、叡智や理性を求めて止まないという二心なき「愛」に他ならず、キケロー自身もこの愛を抱き続けたからこそこの対話篇を始め幾多の作品を著し、またその愛に後世の人々が心を打たれたからこそ彼の作品が現代まで伝えられていることは言を俟ちません。古典古代より絶えることなく受け継がれてきた精神的な力を自らの内に再確認しつつ、受講生の方と共に毎週キケローの言葉を読み進めております。
(山下大吾)