『人不知而不慍、不亦君子乎』
山下太郎
山の学校には大人向けに古典クラスがあり、そこでは、ギリシア語、ラテン語を学ぶ機会があります。なぜギリシア語? なぜラテン語? と疑問に思う人がいるかもしれません。英会話やコンピュータの教室ならそんな質問はされずにすむのですが(笑)。
「有用性」ならいくらでもあります。京都の寺社仏閣を訪れる外国人は多いのですが、漢字が読めると旅の楽しさは格段にアップするでしょう。欧米文化において、ギリシア語、ラテン語の果たす役割は、東洋文化における漢字の役割に等しいと言えます(ヨーロッパを訪れるとラテン語で書かれた碑文の多さに圧倒されます)。実際、英語の文法にせよ、語彙にせよ、ギリシア語、ラテン語の影響抜きには語れません(フランス語、イタリア語等もしかり)。現代日本文化に目を向けても、たとえば車の名前に使われるラテン語は数多くあります。プリウス (Prius) は「第一の」(英語なら first)を意味するラテン語の形容詞です。これは世界「初の」ハイブリッドカーにふさわしいネーミングです。逆に、同じトヨタにブレビス(Brevis)という「高級車」がありました。トヨタの広報によると、Brave(勇敢な)という英語からの命名だとか。ラテン語を知っていると、Brevis は「短い」を意味する形容詞に見えてきます(Short の綴りは「短い」を連想させるのと同様)。
この指摘に対し、「これは日本車だからこれでいいのだ」と言われたらそれまでですが、一方で日本の誇るゲーム産業は世界を視野に入れています。かつてFFVIIIの主題歌のラテン語訳を頼まれたとき、作曲家の植松伸夫氏に「なぜラテン語の歌詞なのですか?」とお尋ねしたことがあります。返ってきた答えは、「FF(ファイナルファンタジー)は世界を見ているからです」というものでした。私はゲームに疎いのですが、ファンなら「なるほど」と納得されるのではないでしょうか。世界を見渡すと、ラテン語は学名や合唱曲の世界で大活躍であることは言うまでもなく、そのことに気づいた日本人が商品名や曲の歌詞にラテン語を用いるアイデアを思いつくのは自然なことだと思われます。
おっと、一番大事なことを言わずにすますところでした。古典語を学ぶ理由として、ホメーロスやウェルギリウス、キケロー、セネカといった作家の作品を「原文で読めるから」という答えは王道中の王道です。「クラス便り」にあるとおり、山の学校では文法クラスの他、これらの作家の作品をじっくり丁寧に読んでいます(余談ですが、講師の間でも『アエネーイス』の読書会を毎週開いています)。予習をし、復習をし、遠方から集う同士の面々。まさに「有朋自遠方来 不亦楽乎」(朋遠方より来たる有り。亦た楽しからずや!)と言うべきでしょう。
今不用意に「王道」と言う言葉を使いましたが、よく考えると、古典語を学ぶ理由に本来王道も何もありません。私たちはめいめい、自分が得をするように学べばよいのです。辞書のひき方がわかる程度でよい、というのも立派な学習の動機付けです。古典語は大きな釣り鐘のようなもので、大きく叩けば大きな音を出し、小さく叩けば小さな音を奏でてくれます。
中国の古典に「無用の用」という言葉がありますが、「用」については人間の数だけあると言えます(この「用」を外から画一的に与えようとするのが今の教育の問題点)。私たちはその「用」を知らずに学び初め、後でそれに気づくというわかり方が本来だと思われます。それがどれだけの価値を持つのかについて、世の中はいつも気にするところですが、これについては「人不知而不慍、不亦君子乎」(人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや)と答えればよいのではないか、と考えています。
(山下太郎)
(この原稿は「山びこ通信」2009/11月号のエッセイを転載したものです)