フランス語講読の様子を山びこ通信(2012/11月号)より転載いたします。
『フランス語講読』 (担当:武田宙也)
フランス語講読では、今学期もダニエル・アラスの『絵画のはなし』を読んでいます。これまで本欄では、アラスの唱える「アナクロニズム」という概念に幾度か触れてきました。ここでアナクロニズムとは、さまざまな時間が混ざりあう事態や、そこから発する歴史観を指します。
アラスは本書のなかで、アナクロニズムを、いわば絵画を「よりおもしろく」読み解くための「道具」として用いているふしがあります。それは、厳格な歴史学の手法にのっとった絵画解釈というよりもむしろ、より自由な発想に重きをおくような絵画への向き合い方ということです。アラスにとって、「別な風に見ることはまた、別のものを見ることであり、それは新たな絵画史をもたらすことになる」のです。本書において、こうした、絵画を新たに楽しむための道具立ては、アナクロニズムに限りません。たとえば彼は、読者にたびたび絵画の「細部」への注意をうながし、細部を捨象する「遠くから見た絵画史」に対して、細部から出発する「近くから見た絵画史」を提唱します。
彼が細部にこだわるのには、いくつかの理由があります。たとえば細部には、画家の意図を超えたものが現れていることがあります。というのも、画家が絵を描くとき、通常はそれほど近くから(つまり、細部がありありと把握できるほど近くから)見られることを想定しなかったからです。こうして、近くから見ることにより、「見られるために描かれたものではないもの」を確認することができます。いわば細部には、画家の「よそ行きの顔」とは違った面が現れているのです。アラスはそれを、画家の「内密性[intimité]」と呼びます。近くから見ることによって、画家の内面により近づくことができるのです。
あるいは細部には、絵画の「起動の[inchoatif]」状態、すなわち、絵画がいまだはっきりしたイメージにまとまっていない状態を見ることができます。そこではまだ、たんなる絵の具の染みや流れに過ぎないものが、いかなる形象もなしていないのです。この細部は、絵画の有機的な統一性を支えることなく、反対にそれを解体するものです。しかし一方でわたしたちは、この絵画の「破壊者」たる細部に、どうしようもなく魅惑されるのです。
アラスによれば、細部とは、「絵画を見る各人によって生みだされる」ものです。絵画の全体にそぐわず、あまつさえそれを掻き乱す細部はまた、絵画を前にしたわたしたちの想像が自由に溢れ出すきっかけともなるのです。
(武田宙也)