「山びこ通信」(2008/6月号)より、「ことば」のクラスの様子をお伝えします。(以下転載)
『ことば1年生』 (担当:福西亮馬)
このクラスでは、言葉への興味を「見守る」ということを大事に考えています。
見守るというのは、生徒たちの発する声や、書いてくれた字を、「絶対的にほめる」ということです。その言葉への興味の中に何が含まれているかをイメージしてみるということです。
今の時期は、何をどのように教えるかということよりも、生徒自身の言葉を聞くことの方がむしろ先にあるものとして大事だと考えます。その生徒たちが、自分の言葉(言語活動のはじめ)を通じて、自分自身を受け容れてもらったという思い出を持ち、いつかそれを自信の糧にして喜んでもらえる日が来ればと願っています。
春学期は、幼稚園で取り組んだことのある俳句や、みんなのよく知っている言葉遊びを題材に、ひらがなへの興味をじっくり見守っています。その一生懸命に書いている姿を見ていると、私自身の思い出とも重なります。
というのも、私自身、ひらがなをようやく自信をもって書けるようになったのは、一年生の冬ごろだったように記憶しているからです。その時になってようやく先生から、赤ペンで誉めてもらったことが自信となって、後々の支えになったことを覚えています。今ではその待ってもらったという思い出の方が強く、それを授業の手がかりにしています。
たとえば、「は」や「を」の使い方は、大人であればすぐに目に付いて指摘したくなるのですが、俳句作りの時などは言わんとする内容の方がより大切なために、また、後になれば必ず誰もができていることなので、焦らずに諭そうと気をつけています。
いくつかの言葉遊びの中で、人気があるのは『しりとり』です。
授業でのそれは、順に一人ずつ言うとだれてしまうので、みんなで同時に考えることにしています。たとえば「う」の次だと、すぐさま「うみ!」「うに!」「うきわ!」「うらやま!」「うらやましい!」「うり!」「うりこひめ!」と、いろいろと連想して出てきます。
一つに絞るのがもったいないくらいですが、それを「この中で『うみ』がいい人?」と、多数決で決める際、せっかく自分の言ったものに全然手を挙げず、他の人のものには「はーい!」と手を挙げるという傾向があるところにおかしみがあります。それの繰り返しが楽しいようです。
そのように、子どもたちの間で流行り出すものには、その時その時の意味があるようです。
何度も「ねえ、しりとりしよう!」と言ってきかないことがあるのも、言葉への興味が出て来ている証拠だと思います。一度それを経験している大人たちはすぐに飽きてしまいますが、しかし子どもたちはその最中にいるので、遊びではなくて真剣です。そのような「時期にあるもの」を、素通りせず、大事に見ていくとどうなるかが期待するところです。
さて、生徒たちは自分の興味を話すことが大好きです。
その中で、発言の許しを得て発する言葉には、それがどんなにたどたどしくても、称揚すべき何かを含んでいます。「ねえ! ぼくの話を聞いて、聞いて!」。こうした意欲が満たされることは、言葉に対する興味の根っこにあたるので、何よりも大事にしています。特に高学年に上がるにつれて手を挙げなくなっていく傾向を思うと、今それをできていること自体が貴重に思われます。
生徒たちはまたお話(を聞くのが)好きです。
その頭には、吸い取り紙のように何でも入ってしまいます。お話はもちろん言葉への興味の入り口です。それなので、できるだけ時間を作って昔話をすることにしています。昔話には、絵本や紙芝居を使う手もありますが、できれば何も使わない方がじかにその表情を見ることができるので、今年は素話に挑戦しています。
話の元には柳田国男の『日本の昔話』を使っています。その中から、生徒の顔を思い浮かべながら、一つずつお話を暗記することは、苦労であり楽しみです。
時間がなくなって、「さあ、この後はどうなるでしょうか? 続きは次回のお楽しみに」と、途中で幕を設けなければならない時は、思いがけず非難に遭ってしまいます。申し訳ないと同時に、そのようにいつまでも残念がってくれる、今の時期が本当に大事だと思われます。夏休みを経て、どのような成長をされるのかが楽しみです。
(福西亮馬)