「ことば」は「こころ」(山びこ通信2009.2月号より)

福西です。今「ことば」のクラスに通っている、6年生のKちゃんが、1年生だった頃の「山びこ通信」(2009.2月号「ことば1年生」)より。その頃から今までの軌跡を、点と点で結んで私自身確かめるためにも転載いたします。

Kちゃんが、ある日お家で「世界にはイタリアとかフランスとか、いろんな国があるけれど、1・2・3……の読み方も、国によって違うの? それはどんな風に違うの?」と質問したそうです。そこで親御さんはこう言ったそうです、「それだったら家にその国の辞書があるから、もし知りたかったら自分で調べなさい」と。

するとKちゃんはむしろ喜び勇んで、辞書を引っ張り出してきたそうです。『打てば響く』とはこのことであり、いわば『かわいい子には旅をさせよ』というこの配慮は、無責任とはまったくの対極です。Kちゃんが自分の疑問に自分で責任を持とうとする姿を、親御さんは見守っておられたのだと思います。

私は、もしKちゃんが最初に「えー」と言っていても、それはそれで一向に構わなかったと思います。その場合は「ただ言ってみただけ」に過ぎないからです。問題は、そのような疑問の深浅を推し量らずに大人がもし一方的に介入していればどうなっただろうか、という点にあります。すっかり答を教えてもらった後で、子どもたちはこう思うのではないでしょうか──(どんなことも、自分が知るよりもとっくの昔に分かってしまっているんだ……)と。

ところが実際はそんなことはなく、世の中はまだ知られていないことだらけです。『混沌の死』ということわざがありますが、こと好奇心に関しては、芽を摘まないことは、伸ばすことと同じかそれ以上の難しさがあると言えます。それだけに、Kちゃんが親御さんから貴重なチャンスを与えてもらったことには、「すごい!」という気持ちが走ったのでした。

この続きでは、(同じ当時1年生の)N君のことを書いています。

さて、推理クイズの答が分かった時の達成感、満足感は、「もっとしよう!」の一言に表されていると思います。やはり子どもたちは本来一生懸命であって、それとどう付き合うかが、私たちの側に残される課題なのだろうと思います。

そうするうちに、生徒の方でもいつしか推理クイズの本を持って来てくれたり、自分で問題を作ってくれたりするようになりました。実際、次のページの問題はN君が考えてくれたものです。紙面だとN君と直接質問を交わせないのが残念ですが、ぜひみなさんも一度挑戦なさってみて下さい。

出題者:N君
かわいい女の子がいました。いえにいました。わたしはまいごといいました。
なぜまいごといいましたか。

「その女の子は、誘拐されたのですか?」「いいえ」
「女の子がいるのは、近所の人の家ですか?」「いいえ」
「知らない人の家ですか?」「いいえ」
「その家は、自分の家ですか」「はい、そうです」
「女の子は、泣いていますか?」「いいえ、笑っています」
「女の子は、本当に迷子ですか?」「いいえ、迷子(という状況)ではありません」
「それなのに、『わたしはまいご』と言っているのですか?」「はい」

最後になりますが、「ことば」というものは、相手に伝えたいという「思い」がまず先にあって生じ、成長するように思います。その点、「ことば」は「こころ」に近いのかもしれません。

上の問題を出したN君にしても、それに対し必死に答を言い当てようとする(つまり「ぼくはこういうことを言いたい!」と聞いてもらおうとする)側にしても、どこかお互い自分のことばの成長の「いま」を確かめ合い、育て合っているように思います。

そこにもし、まだ伝えきれずにいたことがあるにしても、それを誰か大人によって最後まで受け止めてもらえたという安堵が加わるならば、その思い出は、自分自身の言葉を紡ぎ出していく「源」として残るはずだと信じます。

そのことは、授業の開始早々、先週の出来事を話してくれたり、そのことを俳句にして発表してくれたりする時にも同じように感じます。また素話を始める際には、むしろ私の方が受け止めてもらい、みんなから、ことばに対する自信と栄養を与えてもらいました。とても感謝しています。

この36週のことばの思い出は、私にとってもかけがえのない宝物です。これからも新しい心好奇心いっぱいに2年生へと羽ばたいていってくれることを願っています。(福西)

(山びこ通信2009.2月号より抜粋)