福西です。
これはちょっと前の報告になるのですが、1年生のMちゃんが、お家で自発的に『祇園精舎』を覚えてきてくれました。表面的には「すごい!」という感想になるのですが、実はこれには何週間かにわたるドラマがあって、きっとMちゃんとお父さん・お母さんとの思い出になる深いやり取りがあったのだろうを察しました。それをここでは立ち入って書くことはできないのですが、とにもかくにも、Mちゃんは前より一層自信に満ちてそれを覚えてきてくれたのでした。
授業の途中、機を見て「Mちゃんが祇園精舎を覚えてきたんだよ」とみんなに紹介しました。みんな何のことか分からなかったので、「じゃあ、みんなに教えてくれる?」とMちゃんに頼みました。もしかしたら敬遠されるかもしれないと少し恐れたのですが、でもMちゃんは立ち上がって、「ぎおんしょうじゃのかねのこえ…!」とまた応じてくれました。その声が私の前で言った時よりも堂々としていたので、私にとっては二度の驚きでした。
次の週、また授業の終わりにちらっと「祇園精舎、まだ言える?」と聞きました。すると同じように朗々とMちゃんは返してくれました。もうすっかり自分のものになっていて、Mちゃんとコミュニケーションをしていると感じられました。
一方、2年生のクラスでも時期を同じくして、H君が祇園精舎を覚えてきてくれました。H君の取り組みもまた自発的で、宿題ではないのに覚えてくれたのでした。
12月の終わりに一回、祇園精舎の暗唱をしたのですが、その時、H君は、意味は分からないけれどもそこに何だかかっこよさを感じてくれたようでした。最初はまだ完全に言えるのは2行だけでしたが、あきらめずに何度も繰り返し挑戦してくれていました。
冬休みに入ってからも、お父さんがその相手をしてくれて、少しずつ覚えていったそうです。お風呂の中で数を数えるように、コミュニケーションをしている様子が目に浮かんできます。そして年が明けた最初の授業で、その「完成版」をH君が披露してくれました。それを言ってもらっている間、H君がお父さんのことをすごく尊敬していることが端々から伺われました。今では祇園精舎をすっかり自信の種にしてくれているようです。
暗唱は、本来は暗記とは違って、実益のためではなくほとんど虚学だと思います。もし内容をコピーするつもりなら、むしろパソコンにその作業を任せるにしくはありません。おそらくその価値は別にあって、たとえばビートルズの歌詞を耳から覚えて歌うのと同じく、限られた(むしろわずかとも言える)言葉がいかにその人の思い出となり血肉となるかなのだろうと思います。私の頃にもやはり暗唱の習慣はありました。それを普通だと思っていた頃の思い出をたずねながら、今の流行の次元をどうにか越えたいものだと考えています。
私自身がそうだったからということでしか、今は確証がないのですが、今この時点で覚えていることは、思い出の一つとして結晶化する限り、一生の宝になっていくのだろうと思います。MちゃんやH君のように、自信という思い出を胸に大きく羽ばたいていく生徒が増えることを願っています。
すてきなエピソードをありがとうございました。本当に「このまま」ずっと大きくなってほしいなと思いました。それぞれのお子さんが成長し、大人になってふりかえったとき、「自分の親がしてくれたことが一番ぜいたくな教育であった」といえるなら、それにまさるものはありません。私たちのとりくみは「二番目にぜいたくな教育」とふりかえってほしい気もしますが(笑)。