福西です。
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。昨年は、なかなかブログにアップできませんでしたが、今年からは心機一転してコンスタントに書き込みを続けたいと思います。よろしくお願いいたします。
1月の最初の授業では、受け持ちの1、2、4年生のクラスで『ぼうずめくり』をしています。これがなかなか「めくるだけ」とはいえ、奥が深い! 4年生までキャアキャア言いながら白熱しています(上に行くほど白けるかなと思っていたのですが、そんな心配はよそに)。最後の一枚が坊主でも、姫でも、大逆転があるので、この一喜一憂する楽しみは、まさに小学生の時期にぴったりのゲームだと思って、私自身もすごく取り入れてよかったと感じています。
1年生は1年生なりに、たどたどしく、そして一生懸命詠んでくれます。2年生になると、小野小町や紫式部といった名前や歌を知っていることがあり、それを確認するように詠んでくれます。4年生はさすがに詠むのが上手だったりします。「けふ」とか「にほひ」、「ゐ」って何て読むの? という素朴なところから、百人一首に触れるのは決して遠い種まきではないと思います。しかも、何回戦かしていると、同じ歌を詠む偶然があり、それがきっと何かを醸成しているのだろうと感じます。
#高校生になって、100首全部覚えよというのは、あまりに無味乾燥です。かといって、高校生にぼうずめくりは白けるでしょう。「『けふ』ってそういえばあの時…」と疑問を掘り起こすためにも、今が貴重な思いきり触れられる時期だと思います。
偶然、どのクラスでも最初にした日に大逆転のケースがあって、「またしたい!」という流れになりました。そこで、一つ二つルールを追加していくと、これがまた面白さを増しました。
色々なハウスルールがあって、たとえば赤い帽子をかぶった坊主(クラスでは「赤ずきん」と呼んでいます)は、1)ただのぼうず、2)全員に手札を場に出させてゼロスタートを強制、3)相手の持つ手札を全部奪える切り札、という扱いの違いだけで、ゲームがぜんぜん変わってきます。赤ずきんで逆転した時は格別です。(2年生のクラスでそれが起こりました)
余談ですが、私の家のルールではなぜか「山」が一つだけだったので、上から単純にめくるだけで子ども心にも「運任せでつまんない」という思い出しかありませんでした。けれども、山を三つ、四つ…七つと自由に変化させると、がぜん選択の余地が生まれます。左の山をめくったら坊主でも、「ああ、右の山していたら姫だったのに…」という具合です。その悔しさがまた次の期待につながるのだなと思います。
また楽しみを変えるために、チームを組んでもらいました。自分が坊主を引きたくないという思いから、仲間うちで順番を譲りあったり、また仲間が坊主を引いてしまっても、それを責めずに同情したりと、敏感な心の動きが感じ取られます。姫の歌を詠む時も一人ではなくチームで詠んでくれたりします。
そうこうしていると、1年生のY君が「うちのルールでも試してみたい」と言ったので、一緒にしました。
Y君の家のルールでは、絵札と字札をどちらも使います。最初に、絵札で山を作り、字札は各人同じ枚数ずつ配ります。そして、字札を1枚場にチャージし、絵札の山から1枚引けるというシステムです。手持ちの字札が0枚になった人が負けです。ぼうずを引くと、五枚字札を場に捨てねばならず、反対に姫を引くと、それを最大十枚まで受け取れます。こうしてシーソーゲームを楽しみます。(残り1枚をチャージするのにドキドキ、姫を引いてまた復活です)
これは新感覚で、いいゲームを教えてもらいました。ぼうずめくりって奥が深いと何度も思います。
4年生のクラスでは、今度、『青冠(あおかんむり)』というゲームをしてみようと思います。
>奥が深い
本当にそうですね。そうでなければ、これだけ多種多様なルールの味付けはできません。高校生、大人になった先のことまで視野に入れて、ぼうずめくりをされたお気持ちをありがたく思いました。これらのとりくみは、将来子どもたちが自分で古文の世界に入るときに生きてくると思います。
今回あえて競技カルタの取り組みにせず、ぼうずめくり、にされたことが、学びの余白を残す意味でも、つまり、子どもたちにとっての心の敷居を低くする上でもよい選択でした。先生としては競技カルタに取り組んでいます、というエントリーのほうが、「対外的」には見栄えがするわけですが(笑)。
以下余談。
競技カルタは導入の仕方を間違うと、本当に競争オンリーの価値観に縛り付けてしまいます。それがよいのだ、という人は世の中に多いのですが、子どもたちには百人一首に対するそこはかとない親しみ、淡い思い出を持ちながら成長していってほしいと思うのです。どのみち学ぶと言うことは一人旅です。学ぶときには自分で学ぶでしょう。大人として「よかれ」と思って、「これしかない」という価値観を早期に植え付けるのは、善意の現れであっても、「それっきり」の子どもたちを量産する可能性をはらみます。これは学校の勉強全般について言えることかもしれません。教える側のさじ加減一つで、同じ素材でも天と地ほどの差が生まれます。